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『全自慰文掲載 又は、個人情報の向こう側 又は、故意ではなく本当に失敗し、この世の全ての人間から失望されるために作られた唯一の小説』その5

             Ⅲ-1 オナニズム論①
 
生理的・感覚的な正しさは、思考に先立つ。
この考察は、「人それぞれ」や「多様性」という言葉に拒否反応を示している者の、生理的・感覚的は反抗である。
「多様性」を、全世界的に広める前に知るべきことがある。
それは、男性が持つ、「男性性」というものの本当の正体と、「オナニズム」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっていること)の正体である。
私は、2023年に入ってから、「男性性」というものの本当の正体と、「オナニズム」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっていること)のことばかり考えてきた、と言ってよい。
個人的な話ではない。これを書いている41歳の自分の世代を含め、それから下の世代は、ほぼ例外なく、「オナニズム」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっていること)型の社会に生きているのである。
「ちょっと待て。データはあるのか?」という「超自我」からの監視の問いかけに私は、
「ないです。これは、アカデミックな論文ではありません。なので、データを取る必要はないです。『生理的・感覚的』な領域の研究ですから」
と答える。
そもそも、「これに気づいていない人は無能です」とか、「これ知らない人は情弱です」などと他者の無知を馬鹿にしたりする、一群の「頭の良い人たち」がいる。
それは別段、結構なことだと思うが、――その頭の良さは、「常に一定」なのか? ということに、そもそも疑問を抱いている者なのである。
私の例で申し訳ないが、例えば、朝起きたばかりの自分は、もっとも頭が回っていない、という意味で、おそらく「頭が悪い」と思われる。
あるいは、オナ禁(射精を我慢すること)をし始めて二週間ほどまでは、頭の中のことをきっちり整理することが出来ない。
かの如く、「頭の良さ/悪さ」は、生理的・感覚的な条件によって可変していくものゆえ、その人が「ずっと頭が良い」とは言い難い、と思っているのである。
ともかく、本稿における自分の基準は、「情緒的」なものでもなく、「理論的」なものでもなく、「情熱的」なものでもなく、「感覚的・生理的」に正しいかどうか、である。
ゆえに、この考察を読んだ時、各々、胸に手を当ててみて、「生理的・感覚的に分かる」と思ってもらえれば、それで良いし、「生理的・感覚的に理解できない!」と思ったとしたら、それが正解、と思われる。
ところで、私がこの「オナニズム」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっていること)の考察に固執し出した動機というのは、他でもない、「多様性」という概念のせいなのである。
今でこそ「多様性」という言葉で括られているが、1982年生まれの自分としては、それは、「人それぞれだからね」、「まぁ、要は、バランスの問題だよね」という表現だったり、「じゃあ逆に、相手の立場になってみたらどうかというと…」という思考の癖になっていたりする。
少し上の世代の人と付き合うと、大抵、この「多様性」の走りである、「他者の立場になって公平なコミュニケーションを取れるか」に関して、とても上手い人たちが多い。
社会学者の宮台真司さんの言う「ナンパ、コンパ、紹介の時代」が80年代に流行った理由というのは、その世代の人たちが、「他者の立場に立って公平なコミュンケーションを取ろうとするバランス感覚」という「技術」が優れている証拠だ、と思われる。
最もバランス感覚の良い公平な振る舞いが出来る人物。
自分の世代からすれば、そんな人物像こそ、「成熟」した立派な「大人」に映るし、目指すべき人物像ですらある。
事実、「一人○○が私、得意だから」という人より、多人数の飲み会において、目配り気配りがスマートに出来る人の方が、人間の事業として優れているに決っている。
そして、「一人〇〇が私、得意だから」と豪語している人も、内心、分かっていることだ、と思われる。自分は、人間関係において、なんの発展性もない、安易なオナニーに逃げているだけである、と。
と同時に、自分より下の世代、といってもピンキリなわけだが、いわゆる「ゆとり世代」という人たちと出くわすと、それこそ、『欲しがらない若者たち』を読むまでもなく、以上のような、公平な人間関係の構築やスマートな人間関係が下手である。というより、最初から、公平な人間関係やコミュニケーションを求めていない、と言った方が正しいだろう。対人関係においては、むしろ、もっと深い「生と死を共有できる唯一の他者との関係さえ築ければいい」という「極論」的な感情が根っこにある、と思われる。
そう思えれば、彼らがしばしば「秘密主義」に見えるのも、「閉鎖的」に見えるのも、全て納得がいく。公然に口に出して言えないような「極論」的願望を秘めているからである。「心中するぐらいの異性が欲しいです」などと、上の世代の、スマートな先輩たちに言えるわけがない。
そして、「パパ活」や「闇バイト」などに手を出している、現在20代前半以降くらいの世代になると、また価値観が違うのが、興味深い。
自分は彼らと接する機会をほとんど持たないが、彼ら世代の根っこにあるものは、実は、「楽天性」である、と見ている。自分の世代やゆとり世代にはないような「あっけらかん」とした「楽天性」があるのだ。自分がやっていることが非合法だろうが、刹那的な失敗で一生が台無しになろうが、対人関係に対する、底知れぬ「暗さ」など、ないのだ。
自分は下の世代に対してとやかく言う気はない。そんな資格もない。
ただ、出会い系アプリで知り合って殺傷沙汰になる、という事件が多発している世相に接するに、
「『人間の本性』、ことにも、『男性の本性』という分野の知識も経験もゼロのまま、いきなり出会ってどうこう、というのは、勇気、ではなく、無謀、というものだ」
とは、常々思っている。
これまでの私は「多様性」に関して、それこそ、
「人それぞれだしね。相手を縛ることは、自分も縛られることだからねー」
などと、意図的に「バランス」を取って同調してきたつもりである。
しかし、それは本心ではなく、「他者と他者の間でバランスを取る思考」というのは、「後天的」に身に着いた思考法なのである。上の世代や同世代とコミュニケーションを取るうちに、脅迫観念的に身についてきたものなのである。
実際、これまでの自分は、むしろ、誰よりも「他者の立場になって公平なコミュニケーションを取れるか」に拘り、生きてきた人種であった。
異性との会話、デート・プランも、「他者ありき」で考え、実践していたタイプの人間であった。
例えば、このプレゼントに何をお返しすれば「公平」になるのか? このお題目一つで、丸一日悩むような人間だったのである。
その他者の立場になって思考しなければ、公平なプレゼントの正解は成立しない。
設定として、自分は貧乏なフリーターである、としよう。そして、もし仮に相手から、旅行先から買ってきた食事系のおみあげをプレゼントとしてもらった、としよう。
その人が旅行したことがない土地の同価格帯の食事系のおみあげが、返すべきプレゼントとして「最適解」である。
しかし、旅行に行く金もなく、そのツテもないとすると、次に相手の生活様式を考えるわけである。様々な場所に旅行に行ける生活水準の時点で、どの分野のおみあげも「もう既に持っている」可能性が高いわけだ。もうここまでか、と思うわけだが、次に考えられることは、その相手自体ではなく、その「相手の周囲」も返礼のプレゼントの範囲に入れるという発想である。
その相手の、親御さんとか、お孫さんなども、ターゲットに入れるのだ。
もし、その人が、「いやぁ、うちのお母さんが、絵画、好きでね」という情報を漏らした、としよう。
すると、プレゼントを返す相手は、その相手本人ではなく、その相手のお母さんへのプレゼントに変えても、完璧な「公平」とは言えずとも、そこまで不公平ではないのでは? と思えてくる。
しかし、その相手のお母さんがどんな絵画が好きか、まるで分からない。しかし、ここで、その相手のお母さんの絵画趣味に頭を悩ませる必要はない。先程の理論の延長として、高い生活水準の家庭なのだから、ほとんどの絵画を知っているし持っているのだろう、という察しがつくからである。
初めから相手が欲しいものが判別不能な時は、勝手に「これが好きだろう」と断定せず、貰ったプレゼントと出来るだけ同じ価格帯の「塗り絵のできる絵画」などの、「半分は相手の想像力に委ねることで初めて完成するもの」をプレゼントすべきである。
勿論、プレゼント合戦は、この一回きりではない。次回がある。また、相手が「お返し」をしてくるだろう。今回のシュミレーションによれば、相手自体だけでなく、相手の周囲まで、ターゲットを広げてしまったわけだから、それこそ「相手の立場」に立てば、今度はこちらの周囲までターゲットを広げたプレゼントをしてくる可能性もある。
――という具合である。
デート・プランも同じことである。「他者の立場になって公平なコミュニケーションを取れるか」という思考で考えれば、自分の場合、卑下しているわけでなく、「相手から見れば、自分という男は、お金もないし、甲斐性もないし、見た目もダサいから、最下層として見られるだろうな」という自己認識から入るわけである。
だとすると、自分が「求める相手」も「同程度」であるべきである。
この時、それこそ、男性側が奢る/奢らない問題ではないが、相手の女性が、「服、髪型、化粧、今日のデートのために結構なお金がかかっているんだから、奢られて当然でしょ!」という自己認識をしていた、としよう。
この場合、この女性の自己認識がまず間違っているわけだ。
なぜなら、この女性が「他人からどう見られているのか」「他人からどう評価されているのか」と見方で計ると、「それだけお金かけて自分を細工しなければ、理想の自分を表現できない人間なんだね」という風に見られてもなんら不思議ではないからである。
異性とのデートは、お互いに全て「外見」としてチェックされている、と断言してもいい。
所作や仕草だけでなく、相手が言い出しづらいトイレのフォローのタイミングの上手さも「外見」だし、暑い時や寒い時に自分や相手をフォローする道具を持ち合わせているか/いないかも「外見」だし、移動中にするべき会話一つとってみても「外見」だし、LINEやメールアドレスの交換のタイミングも、すべからく「外見」なのだ。
その実、LINE交換が今ほど大前提でなかった頃、メールアドレスやLINE交換のタイミングはかなりの悩みどころであった。デート前半も不自然、デート後半も不自然、よって、デートが終わったタイミングが最も正解に近いわけだが、デート後半において、お互いの「外見」のおおよそがバレてきた段階で、不自然ではないタイミングとシュチュエーションが揃った場合の話ではあるが、以下のような「いかさま」も、成立することがある。
あるテーマパークに来たとき、
「これから、お互い、道に迷っちゃうかもしれないから、LINE、交換しとかない? 後で、消してもいいからさ」
と、きざなことを言ってみるのである。
それ以降、相手を不安にさせず、自然にそのテーマパーク内のデートを楽しませれば、デート終わりにその子はいちいちLINEを消したりせず、次のデートへの期待も高まることになる、――などと言い出したら、本題からますます逸れるし、まるで詐欺師のやり口の紹介である。
なぜ、こんなにも長々と、「他者の立場になって公平なコミュニケーションを取れるか」に関してのエピソードを羅列する必要があったのか、と言われれば、当然、自分がこれまで、少しも「オナニスト」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている人種)ではなかった、ということを、強調したかったからに他ならない。
そんなスマートな対人関係を築けるような人間でありたい、と心がけていたのに、今の自分は、完全に、「オナニスト」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている人種)に堕落してしまった。
徐々に徐々にだが、以上のような「他者の立場になって公平なコミュニケーションを取れるか」という思考が、ひどく馬鹿らしくなってきたのである。

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