行き場のない出来事と言葉
特に「やらなければいけないこと」がない日曜日。
知り合いからビジネスちっくに「来てくださいよー」と言われたイベントに顔を出してみた。
ほんとは行きたくない場所だった。だって、昔の思い出がたくさんある場所だから。その場所にいったら、手を合わせる必要しかなくなるから。
イベントは楽しかった。昔の職場の繋がりの人たちがたくさんいて。お金でご挨拶を済ませた。っていうと、生々しいけど、いまの私にできる精一杯なことをした。
相手からしたら私が突然結婚したような見え方になってしまった人とも偶然出会した。正直、どう思ってるのか気になっていた。毎回、ご飯は奢ってもらっていたし、なんだかんだで二人で会ってたし。軽く挨拶だけ済まして、サッとバラバラになった。まあ顔を合わせるだけで、気は楽になった。これはイベントに行かないと起きなかった出来事だったから、このために足を運んだのかもしれない。たぶん、主題のために行ったけど実は副題があって、本人の意図とは関係なしにその副題に向き合わなければいけない事態は多々あると思う。こうゆうハプニングは生きる醍醐味だと思う。自分の潜在意識と向き合うのは怖いけど。
帰りはお寺にいった。もう場所も名前も覚えていなかったからみたくもない2020年のメールを検索した。
門の前で手を合わせた。
ありがとう、
絶対幸せにします、
弱い自分でごめんなさい、
許してください、
自然と涙が出てきたけど、これは陶酔によるものかもしれない。演じ切って自分を奮い立たせる。そうすることで今当たり前にある幸せんありがたく感じさせる、自分を褒める。そんなような儀式。
一方で、手を合わせにこなくても頻繁に心のどこかしらで思ってはいる。
でも、tiktokの占い師が似たような境遇の違う人へ手を合わせなさいなどアドバイスをしていて、それがずっと頭の中に残っているから、内心罪悪感があり、なんかのきっかけを見つけて行った、そんなところだ。
罪悪感は意味がない。と教えられた。
でも今思いついたことでできることはとにかくやってみようという気持ちになっている。
前までは意地を張っていたから素直になれなかったけど、まあ人の誘いに乗るものたまにはしてみようと。そんな心の余裕が生まれるまでになった。
もう昔に囚われるのはやめたい
ひとりの普通の明るい人に成り切って
全てをゼロに戻したくもなる。
でもなんだかんだで、その出来事に感謝をしていて、自分を強く成長させてくれたことだから、逆にその意味で自分は特別な存在であることを示すために執着しているのかもしれない。
昨日は10年来の友達と久しぶりに会った。
彼女もこの1年大変なことがあって、一部を聞いたが、なかなか今までの幸せの前提が覆るものだった。
有名人や金持ちでもなんでもない私たちにもなかなか壮絶なストーリーがある。
「こうゆうことってドラマでしか起こらないとおもってた」
と言っていたけれど、
実は描かれていない現実ってたくさんあるんだなって。
そこに興味を感じてしまう。
自分はどこまでもエゴイストだ。
仕方ない。諦めるしかない。
現実は自分の意識外のことをどんどん見せてくる。それをコントロールしようだなんておこがましい。でもせめて自分が見えている部分は抜かりなく悔いなく選択したい。
そのために日々の気づきと気持ちを解像度高く捉える。これさえできていれば、大丈夫。
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