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母を許すことができた日。

「経済的に男性は女性を支える者」というイメージのある時代でウチの家庭は異端だった。

父は元から仕事が安定していた人ではなかった。理由は知らない。会社から独立をした後も、仕事はあんまりだった。

車も家も母の資産の担保で購入したもので、母が経済的に家庭を支えていた。

そんな光景をみて育ったわたしは「母のような苦労をしたくない」と思い、男性には自分以上の経済力と安定を求めるようになった。

ただ、改めて振り返ってみるとどうだろう?

母が家計を支える家庭で育ち、わたしは不幸せになった?

いや、幸せになれている。世間のイメージである「男性が経済的に支える」という幸せのプロセスから外れていたが、わたしは幸せになれたのだ。

ここで分かるのは、目的は幸せになる、という一つだけれど、そのプロセスは多種多様でいい、ということ。

そのことを体験しているのに今まで気づかなかった。幸せになるプロセスまでもイメージで縛られていることが、生きづらくしている要因であったのだ。

そういえば、わたしは母のことを恥じていた。

幼稚園の頃にホットケーキを焼く会があり、母親たちがお手伝いとして参加した。その時、同じグループの子が他の子の母親は「ママ」と呼んでるのに私の母親だけ「おばさん」と呼んでいたことに気づいた。

本当に些細なことだけど、4歳の私はとてもショックだった。

母を友達に見られたくない。
どうして私の母だけおばさんなんだろう?

その理由を知ったのは15歳の時だった。

私の受験と合わせて、20代の頃に母が購入した土地と家を担保に家を買う話が出た。

「え?家があるの?」

ずっとアパート暮らしだった私からしたら思ってもみない提案だった。

母は39歳で父と結婚し40歳で私を産んだ。それまでは妻子ある人と何十年も関係を持っていたらしい。そんな母を周りが心配して自分の家と土地を購入しておきなさい、と勧めたんだとか。

側から聞いても馬鹿な話で、当時のわたしも「なんでそんなこと私に言うの?」と呆れてしまった。

それから、わたしにとって母とは、自分よりも学がなくて、馬鹿で哀れな女性。というイメージになった。

母の家にわたしは一歩も入ることなく、誰かの手に渡ってしまった。辛い思い出がたくさん詰まってるから近寄りたくもないんだとか。

そうして私たち一家は20代の頃の母のおかげで家と土地を購入することができた。

これでめでたしめでたし、で終わるはずもなく、母に対しては一貫して嫌悪感が心の中にあった。救いだったのは父が母を尊敬していたこと。「お母さんはすごいんだぞ」と私に言い聞かせていた。だからこそ、わたしが抱く感情に気づきたくなくて、距離をとるように19歳で家を出た。

家を出たら母のありがたみが分かるというが、その感情も今日まで本当に分かっていなかったのかもしれない。

「どうして私をおばさんになってから産んだの?」

その許しができなかったから。今、わたしが28歳になり分かったことは、すべては必要だから起きていた。そして、母はとても強い人だ、ということだ。

20代で土地と家を購入することはもちろん、10代から65歳まで働き続け、家庭を支えるぐらいの収入を得られていたこと。
母が若い頃にした恩が返ってきて父を癌から救えたこと。
母は「五黄の寅」だから強いのよ、と自分でも言っていたけど、本当に強く、たくましい女性だと今日ようやく気づくことができ、母を許すことができたのだ。


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