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その男は、翼に夢と希望だけを乗せて

また、遅れての更新です💦
最近、首を傾げるような凄惨な事件、そして世界でも続く様々な理不尽に心を痛めています。

そんな世相に対して、7月20日にこの世に生を受けた、ひとりの人物を紹介したいと思います。

1、彼の名は…

その人物の名は
アルベルト・サントス・デュモン(Alberto Santos-Dumont)

1873年(日本では明治6年)7月20日、ブラジル(当時は帝国)のミナスジェライス州の生まれ。

ちなみにこの地域は、17世紀のゴールドラッシュにより急速に発展。
その後も宝石鉱山の開発が行われ、現在は世界文化遺産となっている植民都市オウロ・プレット

に象徴されるように繁栄を謳歌していました(建築はゴシック様式が多いですね)。
州名も「宝石の鉱山」という言葉に由来します。
また、現在でもイタビラ鉄山など大規模鉱山があり、豊かな森林資源を背景にしたパルプ産業も盛んであるなど、産業面でもブラジルをけん引する州の一つです。

2、コーヒー農園の御曹司、パリへ

また、ブラジルと言えばコーヒー豆の生産でも有名です。
ミナスジェライス州は、現在でもブラジルのコーヒー豆産出の半分ほどを占めています。
ブラジルの生産量が世界生産の4割近いですから、その半分と言うと世界生産の2割ほど。この地域での生産がいかに盛んかがわかります。

また、彼が生まれたサントス村は、古くから高品質のコーヒーを生産することで有名でした。
実はデュモンの生まれはこの村のコーヒー大農園主の家。
裕福な家の末っ子として生まれた彼は、家族の愛を受けて何不自由なく育ちました。
そして、幼いころから彼は農園を遊び場とし、農園で使われているパルパー(皮むき機)や、運搬用の機関車などの構造に夢中になります。
さらに彼の愛読書は「SFの父」ジュール・ベルヌ

『気球に乗って五週間(Cinq semaines en ballon)』

だったそうです。
この機械と空に対する強い関心が、後に彼の人生に大きな影響を与えます。

順風満帆に見えたデュモンの人生ですが、それは急転します。
農園主の父が、不慮の事故(落馬)で急逝。デュモンは莫大な遺産を相続することになりました。
デュモンが18歳の時のことです。
そして、彼はブラジルを離れ、工学技術を学ぶため、父の祖国であるフランスに渡る決意をしました。

3、青年デュモン、パリで夢を追う

フランス、パリにたどり着いた彼を待ち受けていたのは、莫大なエネルギーに満ち溢れた街並みでした。
彼がフランスに移り住んだその頃、フランスはパリ万博

が開催され、その展示の目玉、エッフェル塔が完成した時期でもあります。
パリの街並みは大きな変貌を遂げ、ピカソやアンリ・マティスなどの先進的な芸術家が活躍していました。

そんなパリで、デュモンは父が残した莫大な財産をもとに、自分の夢を追いかけ始めます。
それは「空を飛ぶ」こと。
気球のように「空を漂う」のではなく、搭乗者が操縦して空を飛ぶ。
彼はその夢の実現のために全精力を注ぎこみ、飛行船や飛行機の開発に熱中します。

※気球と飛行船と飛行機の違い
気球は、バルーンに水素やヘリウムなどの空気より軽い期待を詰め込んで浮力を得るものだが、基本的に行く方向は風任せ。
飛行船は、浮力の獲得方法は気球と同じだが、エンジンなどの動力により、搭乗者が進行方向をコントロールできる(飛行できる)もの。
飛行機は、翼に対する揚力により上昇するので、気体の浮力には依存しない。

そして、彼が開発・改良を重ねていた飛行船は世間の評判を呼び、ある富豪の目に留まります。
それは富豪ヘンリー・ドゥーチ。
彼は、「飛行船でエッフェル塔を30分以内に周回飛行できたら、賞金として10万フランを出す」と言い出しました。いわゆる「ドゥーチ賞」と呼ばれるものです。
彼は、1901年10月19日、エンジンを搭載した「飛行船6号機」を操り、世界で初めての「操縦飛行」に成功しました。
彼が飛んだ距離は、パリ郊外サンクルーからエッフェル塔までの往復、おそそ11.3km。
こうして、彼は人類で初めて「3次元を自在に移動する者」になったのです。

4、プティ・サントス、パリに愛される

この成功により、彼の名はフランス中に知れ渡ることになります。
ちなみに、彼につけられた愛称は「プティ・サントス(小さいサントス)」。
彼が小柄だったことからこのような愛称がつけられたそうです。

デュモンは、フランス社交界のアイドルとして知らぬものはない存在でした。
彼はファッションリーダーとしての一面もあり、トレードマークである襟の高いハイカラーシャツ、山高帽の裾を垂らす被り方などはパリで流行したそうです。

また、彼は「エレガントであること」を重んじ、こよなくコーヒーを愛しました。
飛行実験中に操縦室でエレガントに食事ができるよう、自宅でもわざと不安定なテーブルと椅子を使い(天吊りにしたり、脚を異常に長くしたそうです)、訓練をしました。
さらに、実験中に自宅やカフェに立ち寄り(不時着)し、コーヒーを楽しんで飛び去るなど、破天荒な行動を取ることもしばしばでした。
彼がコーヒーを愛したのは、やはり亡き父への思いもあったのでしょうか。

5、それは世界初…?

そんな彼は苦心の末、念願の飛行機の開発に遂に成功しました。
そして1906年10月22日。
エンテ型の動力機「14-bis」号(位置づけとしては飛行船6号の発展改良版、「14号」)

の公開実験で高さ3m、距離約60mを飛行。
11月12日、再び公開で高さ6m、距離220mを飛行することに成功しました。これにより、距離100m以上の飛行にかけられていた「アルクデアコン(Archdeacon)賞」を獲得。
これは当時、「人類初の飛行」と大々的に報じられ、デュモンはフランスのみならず、祖国ブラジルでも国民的な英雄として讃えられました。

なお、彼はこの時得た賞金を慈善活動に寄付し、なおかつ飛行機に関する技術の特許は一切申請しませんでした。
それどころか、その設計図を公開しているのです。

その後も彼は飛行機の改良を続け、最終的には「22号機」まで生み出されています。

6、デュモンの理想と挫折

彼は、飛行機の設計図を公開することで、誰もがその原理を理解し、空へ飛び立つ夢を実現できる道筋をつけました。
しかし、事態は彼の思いもよらない方向に進んでいきます。

1914年に始まった第一次世界大戦。
そこで使われた新兵器の一つに飛行機がありました。
自分の生み出した飛行機が戦争に使われ、多くの人を殺めている現実。
平和主義者で理想主義者であった彼は、激しく失望します。

また、1910年頃から発症した難病、多発性硬化症。
さらに、アメリカのライト兄弟による飛行

が、実はデュモンより3年前に行われていたという事実が伝わり、彼をさらに追い詰めていきます。

失意の中、彼は平和を求めて1915年、祖国、ブラジルに戻りました。
しかし、そこでも彼は衝撃的な光景を目にします。
1932年、ブラジルで立憲革命が起こり、サンパウロ州がジュトゥリオ・バルガス政権に反旗を翻すと、政権側は軍用機で反乱軍の鎮圧を図ったのです。

激しく失望したデュモンは、著名人たちに呼びかけて署名活動を展開、飛行機を戦争に使用しないよう政府に陳情しますが、政府はこれを黙殺。
この仕打ちに絶望したデュモンは、1932年7月23日、滞在先のホテルで首をつって自殺してしまいました。

7、彼の「エレガント」は今も人々の腕に

彼はその業績と共に、先述の通りファッションリーダーとしての一面もありました。
そんな彼が愛用したレストランがマキシム

ドゥーチ賞の祝賀会も、このマキシムで行われました。

そのパーティーには、デュモンの友人たちの姿が多くありました。そのうちの一人が、ルイ・カルティエ
そう、あの「カルティエ」一族。当時は父と共にカルティエの共同経営者を務めていました。

実はこのパーティー、最初にデュモンが「30分以内」というタイムを達成できたのかをその場で発表するというサプライズ要素がありました。
デュモンが会場に足を踏み入れると、参加者からはタイム達成を祝福する万雷の拍手。デュモンはそれを見て初めてタイム達成を知り、驚いた表情を浮かべました。

その後、パーティでルイ・カルティエはデュモンに、一つの疑問を投げかけます。
「君は、飛行中にタイムを知ることはできなかったのかい?」
それに対してデュモンは
「操縦中に手を放して懐中時計を取り出すなんてできないよ」
と答えました。

懐中時計を見るには、上着のボタンを外し、シャツの懐から時計を取り出し、上蓋を開けるという動作が必要です。勿論、戻す動作も。
飛行中にそんなことができるはずがない、というデュモンの意見はもっともでした。

ルイ・カルティエは、考えました。
懐中時計に代わる、デュモンの飛行に役立つような時計は作れないものか…。
試行錯誤の末、数か月後、彼はデュモンにあるものをプレゼントしました。それは腕時計
スクエアの文字盤に革のベルト、というシンプルでエレガントな佇まい。
彼が作り上げた試作品でした。
腕時計が備えていたのは、飛行するという先進的な目的のために、科学的かつ合理的に作り込まれた「機能美」
それは、それ以前の懐中時計に見られたような「装飾美」とは異なる、実に近代的な美しさでした。

大いに喜んだデュモンはこの時計を愛用し、その評判はたちまちパリ社交界に広がりました。
カルティエはその後の1911年、正式にこのモデルを「サントス」というブランド名で一般販売を行うことになります。
もちろん、この名前はデュモンの愛称、「プティ・サントス」からとられたものです。
このモデルは、今でもカルティエのブランド

としてラインナップされています。
デュモンの足跡は、腕時計にまで及んでいたんですね…。

カルティエのCMでも、モデルたちが身に着けている時計はサントス。

夢と理想を追い、最後は現実に押しつぶされた稀代の伊達男、デュモン。
彼が望んだ、飛行機が人々の夢と希望だけを運ぶ日はいつ訪れるのでしょうか。
そんな日がいつか来ることを願ってやみません。

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