「耳」で学んだ稀代の国学者
今日は、国学者塙保己一
の忌日です。
保己一は、延享3(1746)年、武州児玉郡(現在の埼玉県本庄市児玉町)の農家に生まれました(もとは武家だったらしい)。
9代将軍家重の時代です。
1、幼少の保己一、失明とその後
名前は「寅之助」。幼い頃から病弱で、7歳の時、病気が原因で失明します。
その時、修験者からの助言で名前を「辰之助」に変え、生まれ年も2歳若くするなどした結果、病気は治ったものの視力が戻ることはありませんでした。
保己一は病弱であったものの、物知り(非常に記憶力が良かった)で嗅覚などの感覚も鋭かったそうです。
彼は失明後、周囲の援助を受けながら育ちますが、ある時、絹商人に「太平記読み」で暮らしている人の話を聞き、江戸で学問をしたいという気持ちを募らせます。
そして、彼は母の形見(絹商人の話を聞く前年に死去)の巾着と、その中にあった23文(現在の価値にすると1000円足らず)を手に、江戸に向かうのです。
2、保己一、江戸へ
江戸に着いた保己一は、永嶋恭林家の江戸屋敷に身を寄せ、教育を受けます。
当時、失明した人は音楽や按摩、針灸などを3年間学び、それによって生計を立てるケースが多かったのです。
保己一も盲人組織に弟子入りしてこれらを学ぶのですが…講義の成績は抜群に良いのですが、生来不器用であったため、実習がまるでできません。
これは、独立して生計を立てることが困難であることを意味し、生きていくうえで致命的なことでした。
将来に絶望した彼は、九段のお堀に身を投げようとします。
しかし、そんな彼を寸前で救った人物が。それは雨富須賀一。つまり彼の師匠(雨富検校)でした。
※当時の盲人組織について
組織は階級化されていて、検校をトップに勾当→別当→座頭などの地位があり、音楽や按摩、鍼灸などで生計を立てたり、高利貸しなどを営んでしました。
雨富検校は彼の抜群の記憶力などを目にし、保己一からも学問への思いを聞き鍼灸師などとはまた違う道を歩ませようと考えます。
雨富検校は、保己一に3年間、好きな学問を学ぶことを許可しました。
その後の保己一は、水を得た魚のように学問に没頭します。
国学・和歌を萩原宗固に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮に。
さらに、明和6(1769年)に国学者、賀茂真淵
に入門し、『六国史』などを学びます。
講義を受けた期間は真淵が死去するまでの半年間でしたが、その影響が大きく、後に保己一が国学研究に没頭するきっかけになったとも言えます。
保己一の勉強法は独特でした。
学者の講義をシャワーのように浴びると、記憶力抜群の保己一はそれを全て正確に暗記するのです。
また、保己一の才覚を見抜き、惜しみない援助を与えた人物が他にもいました。
雨富検校の隣人であった武家(旗本)、松平則尹です。
彼は保己一の才能を高く評価し、按摩代(先述の通り、保己一の按摩は下手なはずのですが…)として、毎朝2時間、対面朗読をしてくれたのです。
3、番町の大学者として
大いに学問に励んだ保己一は、30歳で勾当、そしてついに38歳の時、検校にまで出世。44歳の時には『大日本史』の編纂のために水戸藩に出仕するようになります。
同じ頃、彼は一つの決意をします。
それは、「散逸が進む日本史に関係する史料を、今一度この手でまとめること」。
そして、保己一のライフワーク、『群書類従』の編纂と出版が始まります。
彼は、精鋭の助手を選抜し、彼が幕府の援助を受けて設立した「和学講談所」に収集した膨大な資料を音読させます。
そして、彼自身が蓄積した莫大な知識とそれらを照合。史料を整理・校正し、まとめていくという手法を取りました。
これを聞いても、保己一の恐るべき知識量が垣間見えますね。
和学講談所の設立や、資料の収集などにあたっては、幕府だけではなく保己一の才能に惚れ込んだ人々の惜しみない支援がありました。
先述の雨富検校、松平則尹、さらに大田南畝
など。
彼らの支援を受けながら編纂は進み、およそ40年をかけて「正編」が完結します。
群書類従の正編は1273種530巻666冊(!)。
この史料は、現在に至るまで日本史研究の重要資料となっています。
そして、保己一のライフワークは、弟子たちに脈々と受け継がれ、その歴史は何と現在まで続いています。
その編纂は東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられているのです。
同所の出版している『大日本史料』
がそれですね。
保己一は、寛政7(1795)年に盲人一座の総録職、文化2(1805)年に盲人一座十老、文政4(1821)年2月には総検校となりました。
彼が尊敬した豊臣秀吉のように、貧農の出から盲人の社会の頂点に登りつめためたのです。
そして、総検校になった同じ年の9月12日、に76歳で死去しました。
4、おまけ
『群書類従』の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていました。
これが現在の原稿用紙の一般様式の元になっています。
あの原稿用紙の様式、元ネタがあったんです…。
そして、幼少の保己一に夢を与えた絹商人、彼は保己一の江戸行きにも同行し、別れ際、「ともに出世しよう」と誓い合ったといいます。
その絹商人は、後の根岸鎮衛(勘定奉行や南町奉行を歴任した旗本)だという逸話も残っています。
というわけで、今日は江戸中期の国学者、塙保己一について取り上げてみました。
皆さんのご参考になれば幸いです!
サポートは、資料収集や取材など、より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。 また、スキやフォロー、コメントという形の応援もとても嬉しく、励みになります。ありがとうございます。