今日は「伊達巻」の日
5月24日は「伊達巻の日」
です。
伊達政宗公
の命日が5月24日であることに由来しています。
制定したのは「株式会社千日総本社(現在は「株式会社せんにち」に総菜事業を譲渡)」。
「株式会社せんにち」は、玉子焼き、だし巻玉子、錦糸卵など料理全般、干瓢、おぼろ、シイタケなどの寿司具材の製造などをしている企業です。
おせちの代表的なメニューの一つ、伊達巻を日本の食文化として広めていくことが、記念日制定の趣旨でした。
近年はそもそもおせちを食べない!と言う方も増えてきているようですが、伊達巻について、そして日本の卵食文化についても少し触れてみます。
1、そもそも伊達巻とは
一般的なレシピを見ると、材料は
「卵、はんぺん、みりん、砂糖、醤油」
ということなので、料理としては「卵と魚のすり身、砂糖を混ぜて焼いたもの」ですね。
さらにそれを巻くことで、伊達巻は完成します。
練り物の側面もありますが、今回は記事の趣旨から「卵料理」の方向から見ていきます。
また、その元祖は。江戸時代に長崎に伝来した「カステラ蒲鉾」という料理だと言われていますが、これは諸説あります。
ところで、伊達巻はおせち料理の1段目
に入っています。
というのも、伊達巻は「口取り」と呼ばれる料理のひとつ。
口取りは正式には「口取り肴」といい、おもてなし料理の最初に出される料理のこと。
おせちでは「紅白かまぼこ、栗きんとん、昆布巻き、伊達巻き、魚の甘露煮」ですね。どれも縁起担ぎなどの意味があり、1段目にあります。
ちなみに伊達巻の縁起とは
・学問成就:形が巻き物(書物)に似ているため
・子宝祈願:卵を使っているから
ですね。
伊達巻は甘いので、子どもも好きなものの一つ。たくさん食べると成績が上がる(かも)?
ただ、カロリーは高め(2センチで60kcalくらい)なので、食べすぎには注意しましょう💦
また、その名前の由来も諸説あります。
記念日制定のきっかけとなった伊達政宗公の話でいうと、
・伊達政宗公の好物だったから
これはシンプルですね。
それ以外にも
・普通の卵焼きよりも華やかなため、「伊達な卵焼き」という意味
・厚焼卵を渦状に巻く動作が、婦人が用いる伊達巻という帯を締めることに似ているから
など、食文化的な話から形の話まで多岐に渡ります。
2、日本の卵料理の歴史って?
現代の食生活では、卵はなくてはならない食材の一つです。
しかし、卵がこれほど普及したのは、割と最近の話。
日本の食文化の歴史を見てみると、卵はそれほどスタンダードな食材ではなかったことが伺えます。
鶏は、古代では神聖な動物でした。
伊勢神宮の内宮では鶏が放し飼いになっています。
日本書紀には、鶏に関するいくつかの記述があります。まずは冒頭。
「古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物。状如葦牙。便化爲神。號國常立尊」
(古、いまだ天地わかたれず、陰陽わかれざるとき、渾沌たること鶏子のごとく、その清く陽なるものは天となり、重く濁れるものは地となる。天が先ず成りて、後に地が定まる。然して後、神聖その中に生れます)
ここで、「鶏子(とりこ)」と出てくるのですが、これは卵のこと。
そして、天照大神が素戔嗚尊すさのおのみことの乱暴な振る舞いを怒って天岩戸の中に隠れた(岩戸隠れ)ため、困った神々は、何とか天照大神を岩戸から呼び出そうと色々なことを試します。
まず、試されたのが「長鳴鳥(鶏だとされています)の鳴き声」。
朝、日の出と共に鶏が鳴くため、当時から鶏は「太陽を呼ぶ聖なる鳥」と考えられていたようです。
その後日本に伝来した仏教、そして「穢れ」の思想の拡大の影響で、日本では肉食の習慣が大きく後退します。
天武4年(675年)4月17日に、天武天皇による最初の肉食禁止令
庚寅に、諸國に詔して曰はく、「今より以後、諸の漁獵者を制めて、檻穽を造り、機槍の等き類を施くこと莫。亦四月の朔より以後、九月三十日より以前に、比彌沙伎理・梁を置くこと莫。且牛・馬・犬・猨・鷄の宍を食ふこと莫。以外は禁の例に在らず。若し犯すこと有らば罪せむ」と宣ふ
が出されました。
牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べることが禁じられています。
ただ、完全に肉食を禁じていたわけではなく、上の5種類の動物以外は、狩猟方法や期間を限定して狩り、食することを認めているので、「肉食完全禁止!」というわけではありません。
ただ、卵については、禁止対象の鶏が生むものであること、古来から聖なる存在として認知されていた側面もあり、食べることは忌避されていたようです。9世紀初め、日本霊異記では、ゆで卵を食べた青年が地獄に落ちる描写があります。この辺りからも当時の価値観がうかがえます。
その流れが大きく変わったのは、室町時代末期。
南蛮人(スペイン・ポルトガル人)
の日本来航でした。
最初の南蛮人の来航を種子島(天文12(1543)年)だとすると、天武天皇の禁令から実に900年後のことです。
彼らがキリスト教と共に日本に持ち込んだもののひとつに、南蛮菓子があります。
その代表例として挙げられるのが「カステラ」。
その原型と思われるのはスペイン料理のビスコチョ(bizcocho)です。
ラテン語のビスコクトゥス(biscoctus)=(二度焼き)がその名前の由来で、スペイン海軍の保存食として作られた固い食感の菓子でした。
(後に、蒸しパンのような軟らかい食感のものが普及)
カステラなどの南蛮菓子の中には、卵を使うものもありました。
日本国内に南蛮ブームが巻き起こるにつれ、日本国内でも卵を食べることに抵抗感が薄れていったものと考えられています。
そして、江戸時代ごろには、朝廷や将軍家の献立にも卵がたびたび登場していること、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも卵料理が登場すること、卵料理をあつめた料理本が出版されていることなどから、卵食はかなり世間に浸透していたようです。
なお、江戸時代のメニューの中には「落し卵の味噌汁」だったり、幕末には鍋島藩の宿場の食事で「卵かけご飯」
が出されていたという記録も。
半生や生、という日本独特の食べ方の進化も遂げていきます。
そして戦後、冷蔵技術の発達で卵の流通量は爆発的に増加。現在に至ります。
ちなみに、半生や生の食べ方が日本で普及したのは、見た目の艶感や食感の面で、日本の食文化(特に米食)に同じような見た目や食感のものが多かったからだとか。
伊達巻きとはだいぶずれてしまいましたが、日本の卵食文化は、900年の断絶を経て、確実に日本食の一部として定着し、今に至ります。
まだ伊達巻き(おせち)の時期ではありませんが、卵を食べる時にちょっと、そんな日本の食文化の歴史を考えてみてはいかがでしょうか。
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