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小説 「ノスタルジア」 5

5.兄妹喧嘩


 事務所の机の配置が少し変わり、直美が隣に座るようになってから、悠介が「固まってしまう」ことは減りました。直美は相変わらず集中力が長くは続かないので、事あるごとに悠介に話しかけては、自分の気を紛らわせると同時に、彼の体調を見ていました。
 声をかけられると気が散ってしまい、ミスが増える人というのも世の中には存在しますが、悠介は、むしろ長時間黙って作業に没頭していた日のほうが体調は悪化しやすいように見受けられました。彼は話しながらでも正確な製図ができる熟練者だったので、直美は積極的に話しかけ、自社にまつわる様々な事を彼に教えながら、時には冗談を言って、和やかに仕事を進めるようにしていました。
 周りが、それを「うるさい」と言うこともありませんでした。

 異動から1ヵ月も経つ頃には、悠介のほうからも話すようになりました。2人は、すっかり打ち解けていました。




 その日は、普段なら事務所の奥に鎮座している専務が出張のため不在でした。そして、営業マン達も、それぞれの仕事のために全員が出払っていました。そのため、事務所内では悠介が「黒一点」の状態でした。
 座席の近い社員同士が、世間話やお菓子の交換をしながら、パソコンや大学ノートを使った業務を淡々と進めていました。
 そこへ、粉にまみれた黒い体で、汚れた白い紙の束を手にして入ってきたのは睦美むつみでした。彼は、何故かズカズカと直美の席に歩み寄り、いきなり仕事机を蹴りました。彼女は、思わず「はぁ?」と声をあげ、兄を睨みつけました。
「なに遊んでんだ……」
「遊んでねぇよ!」
「俺らは毎日毎日、粉まみれになってキツイことやってんのによォォ!!!」
睦美が大声を出したので、女性の事務員達は眉をひそめて互いの顔を見合わせ、直美は誰よりも深い皺を眉間に寄せました。
「八つ当たりとか、やめろよ。ガキじゃあるまいし……」
直美は、努めて冷静に応えます。
「八つ当たりじゃあねぇよ!!真っ当な怒りだぜ、こりゃあ!!?」
「パソコンが乗ってるんだから、蹴るなよ」
「へっ!こんなゲーム機みたいなやつ眺めて、仕事した気になってんのかよ!……ガキだな!!」
「……何しに来たんだよ?」
「おぉ、そうだ。FAX借りに来たんだ」
睦美は、コピー機と一体型になっているFAXのほうへ歩いていきます。
 直美は、隣の席の悠介が心配になって様子を見ました。……マウスを手にしたまま、凍りついたように固まっています。呼吸をしているかどうかさえ、目視では判らないほどでした。過度の緊張のためでしょう。
 直美は兄に聞かれることを警戒して何も言わず、そっと彼の背中に手を添えました。
 そこで、やっと呼吸を感じました。

 コピー機の前に行った睦美が、再びチンピラのような声を出しました。
「おいおい!何なんだよ、これは!!」
受信したFAXが1枚、誰にも回収されずに残っていたのです。
 発見者が誰であっても、図面が載っている発注書が届いたら、製図担当者の机の上にあるボックスに入れるのが決まりでした。
 睦美は自分がやりたかったFAX送信を終えると、受信したほうの紙を悠介の席まで持っていきました。そこで、そのままボックスに入れてやるだけで良かったのですが、すこぶる機嫌が悪い彼は、悠介にまで当たり始めました。発注書を、悠介の目の前にあるキーボードの上に、これ見よがしに置きました。
「納期を見ろ。こっちが優先だ」
しかし、悠介は応えられる状態ではありません。
「また『無視』か!!」
怒鳴りつけた後、悠介が座っている椅子のキャスターベースを蹴りました。
 悠介は、あっけなく転びました。隣の席に居た直美は、すぐに彼を助け起こし、怪我をしていないか、頭を打っていないかと、何度も確認しました。
 彼は床の上に一人で座ることはできましたが、マスクの下で顔面が何箇所もピクピク痙攣けいれんしているようで、また、目線が絶えずフラフラと動きっぱなしで、どうも様子が変でした。
「悠さん……?」
直美は、再び彼の背中に触れようとしました。
「そんなザコに構うな!」
現場に向かって歩き始めていた睦美が、吐き捨てるように言いました。

 いよいよ激怒した直美が、兄を追いかけていって胸ぐらを掴んだことで、激しい喧嘩が始まりました。初めこそ睨み合いとなりましたが、睦美は容赦なく妹の腹を殴り、体勢が崩れたところに蹴りを入れました。安全靴による蹴りは、なかなかの威力です。一旦はうずくまった直美でしたが、すぐに体勢を立て直し、気合いを入れるべく叫んだ後、兄の金的を蹴りました。決して硬くはないランニングシューズとはいえ、かかとが急所を直撃しました。
 ……勝負ありました。睦美は無様に腰を抜かし、床に転がって悶えています。それでも、直美は息を荒げたまま拳を構え、戦闘体制を解きません。

 ずっと固まっていた悠介が、何も言わずに立ち上がり、ふらつきながらも現場に向かって歩きだしました。
 その一連の騒動の間、10人近く居た事務員は誰一人として自分の席から動きませんでした。


 現場で真っ先に会ったのはわたるでした。検査室で精密測定器の掃除をしていた彼は、まずは普段通りに「お疲れ」と言ってくれましたが、すぐに悠介の様子がおかしいことに気付きました。
「どうした?何かあった?」
悠介は震えながら、声を絞り出します。
「むっ、睦美さんが……直美さんを、蹴りました……」
「蹴った!!?」
彼は声を裏返してそう言った後、腹立たしげに頭を掻きながら「また喧嘩してるのか……」と呟きました。
「今、2人は事務所?」
悠介は頷きました。
「分かった。俺が見てくるから、松くんは工場長にも報告して。2階に居る」
「はい……!」

 悠介は震えつつも急いで2階に上がり、円い老眼鏡をかけてカッティングプロッターという名の自動機を操作していた工場長に、亘に言ったのと全く同じことを言いました。工場長も、初めは「はぁ!?」と驚きを露わにしましたが、すぐに「またか!」と呆れたように言いました。
「まったく……あの『ブラザーズ』は、いつまでそんなことをやっとるんだ!」
直美は女性なので「brothers」という表現は間違っているのですが、それは彼女の性格や、兄との『乱闘』の頻度をよく表しているようにも思えました。
「教えてくれてありがとうな」
工場長は にこやかに そう言いながら老眼鏡を外し、それをパソコンを置いている机の引出しにしまいました。悠介のほうは、ガチガチに緊張したまま、黙礼で応じました。
「おまえ、プロッター分かるよな?」
「え、えっ……?」
確かに、操作方法は解ります。しかし、予期せぬ問いかけに、悠介は混乱しました。
「俺は、今から向こうで『説教』をせんといかんからな。しばらく離れるんだ。……後を任せていいか?」
「ど、ど、どれを造れば、いいっすか……?」
工場長が手渡してくれた図面によれば、全く同じ形状のパッキンが、1000個以上も必要なようです。
「材料はもう出してあるからよ。あとは、ひたすら稼働と回収を続けてくれ。後加工なしだ。数が揃ったら、そのまま検品に回せ」
「は、はい!」


 悠介が黙々とパッキン造りに勤しんでいると、亘が上がってきました。しかし、悠介はしばらく気付きませんでした。カッティングプロッターという機械は、巨大な机のような作業台に無数の小さな穴が開いていて、そこから掃除機のように空気を吸い込み続けることで、台の上の材料がズレないよう固定するのです。吸い込み機能(バキューム)がONになっている間じゅう、かなり大きな音がします。誰かの足音や声に気付かないことは、しばしばです。
 事務所に行ったはずの亘が急に自分の視界に現れ、思わず「うわっ!!」と声が出た悠介に、亘は至極冷静に「やあ」と言いました。そして、話し声が届くよう自分の近くにまで悠介を手招きで呼び寄せました。
 素直に耳を貸しに来た悠介に、亘は低めの声で言いました。
「直ちゃんから聴いたよ。睦美が最初に蹴っ飛ばしたのは松くんだって……。怪我は無い?」
「大丈夫っすよ」
「それなら良いんだけど……。後からでも、痛みが出たら言いなよ」
「うぃっす」

 工場長からの指示でこの場所に来たという亘は、悠介が造り続けている製品の数や形状の確認を始めました。机の上にあった図面や、床に並んだ箱に山盛り入っている実物を幾つか手に取って、よく観察します。
 悠介は、キリの良いところで一旦機械を止めました。
「も、問題ないっすかねぇ……?」
カッティングプロッターを扱うのは、何年ぶりか分かりません。なんだか心配になってきました。
「……今のところ、大丈夫そうだよ。目視で判るようなズレは無いかな。このまま行こう」
「はいっ」

 何度目かの回収が終わった時、亘は、床に転がされていた黒い円柱のようなものに目を遣りながら「次はそれか」と呟きました。
 ロール状に巻かれたゴムシートは、薄手のものであっても、大きさ次第では結構な重さになります。健康な男性でも、一人で運ぶのは難しい場合があります。亘は、黙って悠介に手を貸しました。悠介のほうは、気恥ずかしそうに「あっす」と応えます。(それは「ありがとうございます」を極限まで省略した形です。)
 2人で協力してシートを台に乗せたら、収まりきらない分は、亘がカッターナイフで手早く切りました。反対側の端を持っていた悠介が、角を『ゼロ地点』に合わせます。材料の置き方と、図面上の座標があまりに大きくズレてしまうと、不良品が多数発生します。(それを避けるために、バキュームに加えて養生テープを活用する職人も居るくらいです。)

 機械が順調に作動している限り、オペレーターは待機となります。とはいえ、端材を片付けたり、次に備えた準備をしたり、あるいはパソコン周りを軽く掃除したりと、すべき事は絶えずあります。刃が減っていないかの確認も、重要です。
 黙々と機械の側で動き回り続ける悠介に、亘が声をかけました。
「松くんはバキュームの音、平気なんだね」
「え?そりゃあ……まぁ……」
どうして急にそんなことを言われたのかと、悠介は不思議に思いました。
「これが苦手な人、意外に多いんだ」
「そうなんすか?」
「吉岡先生も……かなり苦手らしいよ。すごく耳の良い人だから」
「マジすか」
「大きな音を聞きすぎると、発作が起きてしまうから……うちに居た頃は、いつも耳栓してた」
「へぇ……」
せわしなく動き回るプロッターの刃を眺めながら、悠介は独り言のような返事をしました。
 悠介は先生の聴覚や発作のことよりも「先生が働いていた当時、亘も既に在籍していた」ということに、より強い関心を抱きました。先生がこの工場でアルバイトをしていたのは、15年近く前のことです。常務や工場長には敵わないにしても、なかなかの勤続年数です。
「亘さん、この仕事 何年目すか?」
「えっ、何年だろう。25で入って……今41」
「……16年すか?」
「そんなもんかな。どうしたの急に」
「いや…………先生と、時期 重なってたの初めて知ったんで……」
「あぁ」
 在籍していた頃の先生について、亘はそれ以上のことは何も語りませんでした。

 無事に必要な数の製品が出来上がり、悠介は残材の片付けを、亘はノギスや定規を用いた本格的な検品を始めました。検品は、同じ階に専用の机があり、そこで事務椅子に座って行います。
 すべき事を終えた悠介が、指示を仰ごうと亘に歩み寄っていくと、亘が先に口を開きました。
「それにしても、お説教が長いねぇ……」
「……亘さん、1階の仕事は大丈夫なんすか?」
亘の返答次第では、悠介はそちらを手伝う気でいました。
「急ぎの仕事は無いね。……変なのが割り込んでこない限り」
取引先からの無茶な注文や、クレームによる造り直し等が「変なの」ということなのでしょう。
「事務所、見てきましょうか?」
「いやぁ、行ってもしょうがないよ。会議室で話し込んでるだろうから……」
世代交代を控えた大事な時期に、次の経営者に対して語るべき事は、山とあるのでしょう。
「あの2人が喧嘩すると……長いんだよ。1日や2日で終わらないんだ。さすがにもう別々に住んでるけど、会社で顔を合わせるたびに口論か、殴り合いか…………酷いもんさ」
 亘は、淡々と検品を進めながら語ります。悠介が造った分だけではなく、初めからそこにあった未検の製品も調べ始めました。まずはエアーをかけて粗方綺麗にしていきます。
「兄妹だからこそ『いろいろある』のは、知ってるんだけどさ。同じ会社で一緒に仕事をするからには、私情なんてものは家に置いてこなきゃならない。……兄妹喧嘩で会社全体の段取りが狂うなんて、馬鹿げてる」
亘は非常に手際良く、それぞれの製品の所定の箇所を計測機器で測定し、問題が無ければ図面にレ点を入れていきます。全ての項目において合格の数値なら、図面には大きく「OK」と書いて丸をして、次の品を見ます。
 悠介は、相変わらず指示を待っていました。検品は、片手でも不可能ではありませんが、すごく時間がかかります。自分から「手伝います」と言えるほどの、自信がありませんでした。亘一人で全てをやったほうが、明らかに早く終わります。自分は何か他のことをさせてもらったほうが、会社にとっては有益です。
 しかし、亘は悠介に別の仕事を与えようとはしませんでした。淡々と検品を進めながら、あの兄妹の話を続けるのです。
「これから社長になろうって人が、従業員を蹴っては駄目だよ」
「で、でも、直美さんは……!」
「反撃だったとしてもね。『過剰防衛』だと思うよ」
手厳しい正論です。
「考えてもごらんよ。……もし、あの2人が兄妹だなんて知らない子がバイトに来て『社長が激昂して従業員の股間を蹴った』ところなんて目撃したら、すぐに辞めちゃうだろうし……それをネット上にでも書かれたら、とんでもないことになる」
「た、確かに、そうっすね……」
「今回の件は、9割がた睦美が悪いけど……直ちゃんの対応もマズかったね」
悠介は黙り込み、亘が棒やすりで製品のバリ(不要な部分)を削り取る、小さな音だけが聞こえています。
「工場長が戻ってきても……何も訊いてはいけないよ。直ちゃんの名誉に関わる」
「はいっ」

 悠介は、この 亘からの言いつけを、生涯 守り抜きました。


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