小説 「ノスタルジア」 6
6.座学の日
あれ以来、直美が兄からの挑発に乗ってしまうことは ほとんど無くなりました。時折、口論にはなりますが、それが暴力を伴う闘争にまで発展することはありません。
珍しく、穏やかな日々が続いていました。
その日は待ちに待った金曜日でしたが、常務が家庭の事情により休みました。「常務が不在ならば、勉強会は中止」という決まりがあったため、亘と悠介は完全に諦めていました。外はどんより曇っているし、空気は じめじめして、社内も気怠い雰囲気です。
しかし、直美だけは違いました。昼休みに食堂で2人を捕まえて、意気揚々と言いました。
「今日は、会議室で座学をやりましょう!」
「良いの?常務いないけど……」
「現場に出なければ『安全』ですから!」
「それもそうか……」
悠介は、2人の会話を黙って聴いていました。しかし、本当は直美の発案が嬉しくて堪らず、歓声をあげたいくらいでした。
その日の定時過ぎ。3人は、座学のことを工場長に知られないよう、きちんとタイムカードを切ってから、3階の会議室に集まりました。直美が講師役で、あとの2人が受講生です。直美は会議用のホワイトボードを背に立ち、悠介と亘はパイプ椅子を並べ、ひとつの長机を共有して着席しました。2人とも、ちゃんとノートと筆記具を持ってきています。(何かあった時のために、いつもロッカーに入れてあるのです。)
「今日は、この会社の『歴史』を振り返ろうと思います!」
そう言って、直美は大きなホワイトボードに、スラスラと家系図を書き始めました。そして、その中の数人の名前を四角で囲み、1〜3までの数字を添えました。1の人物は「庸一郎」、2は「幸恵」、3は「康二」という名前で、康二の孫にあたる位置に、睦美と直美の名があります。
また、その図によれば庸一郎と幸恵は夫婦で、康二は庸一郎の従兄弟であるようです。
「悠さん、これが何の図か分かりますか?」
直美はキャップを閉めたマーカーを手にしたまま、教師のような口ぶりで彼に問いました。
「……歴代工場長の家系図っすよね?」
「素晴らしい!正解です!」
彼女は「授業」をするのが好きなようで、とても楽しそうに応えました。
「今の工場長は、出てこないんすか?」
「……西島さんは、私達の親族ではありませんから」
「そういうことっすか……」
家系図を前に、授業は進みます。
「我らが【茂野工業】は、ここに名前のある創業者・茂野庸一郎が、終戦の翌年に立ち上げました。当時は、日本中のいたる所に焼け野原が広がっていて、その場所の復興に欠かせない物資を運ぶための『車両』と、それに付ける『ゴムタイヤ』の需要が、急速に伸びていました。……我が社の事業は、ゴムタイヤの原料を調達し、他のタイヤメーカーに卸すことから始まりました。
やがて、自社でも設備を所有し、他社からの注文に応じた素材の『練成』を行うようになり、車両のタイヤとは全く違う製品の『製造』も行うようになっていきました」
悠介は、いくつかのキーワードだけをノートに書きました。亘は、まだ何も書こうとしません。
「現在の主力商品は……何だか分かりますか?悠さん」
「また俺すか?……えーっと。何かの『パッキン』と『Oリング』の発送が、いちばん多い気がします」
「素晴らしい!社内の状況を、よく見てますね!
「……でも、亘さんや常務が毎日旋盤で造ってるのは、全然違うやつっすよね?」
悠介は、亘に訊きました。
「俺達がやるのは、ロールの成形か、オーダーメイドの製品ばかりだね。用途は、まちまちだよ。何かの栓とか、自動車部品とか……正直、よく分からないやつも多いな。うちでは『荒削り』で終わるような……。納品先で、別の加工をするんだろうね」
「フライス使う分も、そんな感じっすよね」
今度は直美に訊きました。
「そうですね。我が社は『オーダーメイド』かつ『小ロット』『短納期』が売りです。大手ならまず受けないような品目を、あえて引き受けます」
「なんで、タイヤメーカーには しなかったんすか?」
「タイヤに限らず……『一律の規格で大量生産』というのは、海外にも工場を持っている大企業が圧倒的に有利なので。そこと真正面から競合するよりは、ニッチな需要に確実に応えられる、より専門性の高い技術力を磨いていくことに、会社としての活路を見出したのだと、聴いております」
「…………ニッチって、何すか?」
「マニアックと、同じような意味です」
「なるほど。……物好きな客のために、七面倒くさい仕事を あえて引き受けて、その分、高い金を取るんすね?」
「……だいたい、そんな感じです」
直美と亘は、堪えきれずにクスクス笑いました。悠介は、それに気付かないまま、ノートに自分の解釈を書きつけました。
「こら!!何をしとるんだ!!」
突然響いた工場長の大きな声に、悠介だけは驚きのあまり立ち上がりました。
「自社の歴史を語っております」
直美は毅然として答えました。
「今日は石川が休みだろ!勉強は中止の約束だ!!」
工場長は、顔を真っ赤にして怒っています。
「授業だけなら事故は起きませんよ!タイムカードも切りました!」
「アホか、お前らは!せっかく定時で上がれる日を、無駄にするな!!……特に、亘!!」
工場長は、悠介が立ち上がっていることには一切言及せず、ずんずんと亘に歩み寄りました。
「こんな日にまで、娘より勉強を取るのか!!?……実に けしからん!!さっさと帰れ!!」
「…………分かりました。すぐ片付けます」
いつも通りの無駄のない返事をした後、亘は速やかに立ち上がり、自分が座っていた椅子を片付けました。それを見た悠介は、自分も椅子を片付けました。
机は、亘と直美が協力して運び、畳んでしまいました。
2人が机をしまう間、悠介はホワイトボードの前で仁王立ちしている工場長の、後ろ姿を眺めていました。
直美が書いたものを消してしまうに違いない……と思っていると、工場長はイレーサー(字消し)ではなくマーカーを手に取りました。そして、家系図のどこにも繋がっていない位置に、書道家のような力強い字で「西島 司」と署名し、1〜3代目と同じように四角と数字を書き足しました。そして、既に書いてあった直美の名前を赤色のマーカーで念入りにぐるぐると囲ってから、下に大きく「5代目!!」と書きました。
「まったく……“小娘”が何を語るってんだ。こういう話はなぁ、年寄りがするから面白いんだ!」
半ば独り言のようにそう言ってから、マーカーを置いて振り返りました。
「なぁ松尾。歴史なら今度、俺が じっくり教えてやるからな」
直美や亘となら笑顔で話せる悠介でしたが、工場長の前ではいつも緊張してしまい、ほとんど何も言えなくなるのです。
今は「はい」とだけ言って、頷くのが精一杯でした。
そこへ、作業を終えた亘がやってきて言いました。
「松くん。駅まで一緒に帰ろうよ」
「あ、はい……」
2人のやりとりを見た工場長は、満足げに笑いました。
戸締りは工場長がしてくれるとのことで、3人は追い出されるように帰路につきました。直美は自分の車で走り去り、亘と悠介は歩いて駅に向かいます。15分くらいの道のりです。
似たような形のリュックを背負い、並んで歩く道すがら、亘が言いました。
「子どものために早く帰れ!……なんて言ってくれる経営者は、素晴らしいよね」
「……家に、奥さん居るんすよね?」
亘は如何なる時も結婚指輪を着けっぱなしであることに、悠介は入社直後から気付いていました。
「俺、シングルだよ」
「え?じゃあ、指輪……」
「あぁ。……これはね。離婚をしたわけではないから、外したくないんだ」
それが何を意味するのか、悠介の疲れた頭では全く解りませんでした。何度も首をかしげながら歩いていると、亘が答えを教えてくれました。
「俺の嫁さんは天国に居るんだ」
それを聴いた瞬間、悠介は背筋が凍るように感じました。そして「この上なく失礼な質問をしてしまった」という、罪悪感に襲われました。
「すいません……」
「どうして謝るのさ。初めて話したのに」
悠介は、妻に先立たれた知人のことが頭をよぎり、身体が震えました。遺された その人がどれほど苦しい道を歩んだか、よく知っているからです。
このまま亘の奥さんのことを掘り下げたら、自分が耐えられなくなる……。そう感じた悠介は、話題を変えました。
「娘さん……こんな時間まで保育園すか?」
「いや。俺、実家暮らしだから。両親が見てくれてる」
少しだけ、ほっとしました。
「写真、見る?」
そう言うと、亘はスマートフォンに保存してある選りすぐりの写真を、歩きながら次々と見せてくれました。幼い女の子が、家の中で祖父母と思われる大人達と遊んでいたり、びっくりするような寝相で寝ていたり、バースデーケーキを食べようとしていたりといった、ありのままの日常を切り取った写真の数々に、悠介は思わず見入りました。(撮影者が亘であるためか、彼が写っているものは一枚もありません。)
「かわいいっすねぇ……!」
悠介には妹が2人居るので、その2人が小さかった頃を思い出していました。妹達は ごく幼い頃からずっと反抗的でしたが、写真の子は、とても素直そうに見えました。悠介の実家よりもずっと裕福な家で、3人の保護者の愛情を一身に受けながら、健やかに のびのびと育っているように思えました。
写真の中のケーキに乗っていたプレートには「まきちゃん おたんじょうび おめでとう」と書いてありました。
「名前、まきちゃんっていうんすか?」
「そうだよ。【真の希望】で、真希なんだ」
「かっこいいっすね」
「……ありがと」
ちょうど信号待ちとなったタイミングでスマートフォンを尻のポケットにしまうと、亘は星の無い夜空を見上げるようにして言いました。
「俺は、真希が居るから頑張れるんだぁ……!」
悠介は、あえて何も言いませんでした。結婚さえしたことがない自分に、親としてのモチベーションや使命感といったものは、解り得ないと思ったからです。何を口にしても「差し出がましい」気がしました。
信号が変わり、2人は再び歩きだします。
「……俺は、来週が楽しみっす」
「そうかい?……本当に勉強熱心だねぇ」
「先生が紹介してくれた仕事なんで。尚更っすかね」
「義理堅いんだね」
亘は、いつも何の躊躇いもなく褒めてくれるので、悠介は そのたびに照れくさくなるのです。顔が赤くなっているのが、自分でも判るくらいです。堪らなくなって、頭や頸を撫でてばかりいます。
「先生とは、どこで知り合ったの?動物園?」
先生が、スケッチのため動物園へ頻繁に足を運んでいることは、有名な話でした。
悠介は、そのまま頷いてしまおうかとも思いましたが、亘と先生が直接話したら嘘はバレてしまうので、正直に答えました。
「俺……先生の弟さんと、同じ会社で働いてました」
「へぇ。先生に弟さんが居るなんて、知らなかったな……」
悠介が思っていたほど、亘と先生は親密な関係ではなかったようです。
駅に着いたら2人ともICカードで改札を通り、改めて挨拶を交わしてから、別々のホームに上がっていきました。
悠介は、運良く座れた電車の中で、リュックを抱くようにしながら俯き、他の乗客と目線が合わないよう寝ているふりをしました。(疲れて、本当に眠ってしまう日もありますが、どのみち降りる駅は終点で、寝ていれば車掌さんが起こしてくれます。)
目を閉じると、つい先ほど見た写真の数々が、思い起こされました。亡くなった奥さんが遺した、大切な娘……。亘にとって、その子は何よりの【宝】でしょう。
(真の、希望……)
これ以上ないくらい、両親の想いが込められた名前だと感じました。
悠介は彼らの親族でも何でもありませんが「あくまでも一人の同僚として、亘の負担を軽減し、子育てに協力したい」「真希ちゃんには、お母さんよりも長く生きて、幸せになってほしい」と、強く思いました。
あの子が、幼き日の直美のように、現場を訪れる日は来るでしょうか。