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小説 「僕と先生の話」 9

9.先生の庭

 ある日、先生に、僕が休みの日はどう過ごしているのかと尋ねてみた。
 一人で買い物に行ったり、外食をしたり、動物園に行ったりすることが多いとのことだった。
「動物園に?お一人で行くんですか?」
「そうだよ。どうしても納得のいく絵が描けない時は、実物を観察しに行くんだ。良い運動にもなるし」
なるほど。創作活動のためか。
「やはり、写真や映像だけでは駄目だよ」 
勉強熱心な方だ。

「君は、動物が好きかい?」
「はい。好きですよ」
「……今度、一緒に動物園へ行こうか」
「へ?」
びっくりしたけれど、断る理由はなかった。


 後日、最寄駅で待合せをして、先生お気に入りの動物園に2人で行くことになった。
 待合せ場所に現れた先生は、飼育員かと思うような格好で、帽子を被ってマスクをして、硬くて四角い防水仕様のリュックを背負っていた。
 駅から少し歩いて、動物園の入り口が見えた時、先生が「あそこは私の庭だよ」と、得意げに言っていた。

 初めて来園した僕は、入り口でパンフレットを受け取って、何がいるのか確認した。
「君が、いちばん見たい動物は何だい?」
「トラですかねぇ……」
「わかった。朝一で見に行こう」
開園直後に入園すると、先生は真っ先に最深部のトラ舎へと案内してくれた。
 奥まで行くと、客はまだ誰もいない。

「おはよう」
先生が、ガラスの向こうで歩き回っていたトラに挨拶をすると、トラはすぐ側まで近寄ってきて、ガラス越しに頭を擦り寄せてきた。
「凄い……」
トラの大きさと、まるで先生と友達であるかのような振る舞いに、僕は感心した。
 そのトラは、僕には見向きもしなかった。
 僕は、スマートフォンのカメラでカシャカシャとトラを撮影していたけれど、どうしてもガラスに自分や先生が写ってしまって、なかなか良いものが撮れなかった。
 先生は、リュックからシャーペンと小さめのクロッキー帳を取り出して、すらすらとトラを描いていた。
「いやぁ、いつ見ても素晴らしいねぇ……。私は、描く対象としては、トラが一番好きかもしれない」
トラがどれだけ動いても、先生は平然と描き続けている。もはや、トラの形なんて、完全に頭に入っているのだろう。
「満足したかい?」
描く手はまだ動いているけれど、僕が撮影をやめて解説の看板も読み終えたことに、先生は気付いていたらしい。
「えぇ……まぁ……」
「後でまた来よう」
 
 常連客である先生は、園内の地図はもちろん頭に入っているし、動物達の名前や誕生日、エサの時間やイベントのスケジュール、天候と動物の行動パターンの関連性まで、何でもよく知っていた。
 ご自分で「庭」と言うだけのことはある。

 先生は、動物の前を通る時には、必ず彼らに挨拶をしていた。
 飼育員や清掃員の中にも顔見知りが居るようで、人とも挨拶を交わしながら颯爽と園内を歩く先生は、まるで現役の従業員みたいだった。


 先生が「他にも、寄ってくるのが居るよ」と言い、チンパンジーを見に行くと、群れで唯一の雄が、先生の姿を見るなり駆け寄ってきた。
 ガラス越しとはいえ、先生と彼は互いに見つめ合い、まるで意思疎通が出来ているかのように見えた。
 先生が、鳴き真似や息づかい、表情や首の動きで、彼に何かを伝えている姿を見て、僕は「本物にそっくりだ」と思った。そして、それは単なる「チンパンジーの真似」ではなく、ちゃんと意味のあるボディーランゲージである気がした。
 僕が「友達なんですか?」と尋ねたら、先生は「親戚だよ」と笑っていた。僕も笑った。確かにそうだ。僕らも霊長類だ。
 先生がガラスに手を当てると、彼は向こう側からガラスを軽く叩いて応えた。
 ひとしきりチンパンジーとの「会話」を楽しんだら、次はクマを見に行こうという話になった。


 真っ黒なクマが、うろうろ歩き回っているところを見ながら、先生は「うちの弟にそっくりだ」と呟いた。
 彼は職場でゴリラと呼ばれているけれど、確かにツキノワグマにも似ている。
(彼のLINEのアイコンは、ゴリラの写真である。)

「彼とは、今も連絡を取っているかい?」
「あ、はい。たまには……」
僕の転職を世話してくれた彼は今、毎日残業続きだと言っていた。

「彼が小さいうちは、何度も一緒に ここに来たよ」
「歳は、いくつ違うんですか?」
「11だね」
「ずいぶん離れてますね」
「そうだねぇ……」
先生は、ずっとクマを見ている。

「彼、最近は先生の家に来てませんね」
「あの家は、彼のものだよ」
「え?」
「あの家は、彼の名義でローンを組んでいるんだよ」
「そうなんですか!?」
「本人は、学生が住むような安アパートに住んでいるけれどね。
 私は、弟からの仕送りで生活して、君を雇っているんだ。絵本での収入なんて、車の維持費に消えるよ」
「知りませんでした……」
「今、初めて話したからね」
 姉のために家を買った善治も凄いけれど、車の維持費を確保できるほど絵本が売れているのも、凄いことだと思う。

「あいつはもう、自分のことなんて何も考えていないんだ。仕事と、他の人間のことばかり考えて、ずっと働きっぱなしだ……」
 僕も、そう思う。

 クマ舎の周辺に、人が増えてきた。先生は、腕時計を見た。
「もう一度、トラを見に行ってみるかい?」
「そうしますか……」
 僕は、既に足が痛くなっていたけれど、せっかくの機会なので同意した。

 トラが屋外の運動場で昼寝しているのを見た後、タヌキの仔がじゃれ合っている姿を見ていたら、足の痛みなんか、気にならなくなった。

 ホッキョクグマが泳いでいる。サイが餌を食べている。キリンが歩いている。
「素敵なお庭ですね、先生」
 キリンを眺めながら、僕がそう言った時、草木とシマウマを描いていた先生は、満足げに笑った。
「気に入ってもらえて、嬉しいよ!」

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【10. 夫婦と家族】
https://note.com/mokkei4486/n/n2f5edb3f429d

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