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小説 「ノスタルジア」 3

3.崇高な魂

 金曜の夜。例の【勉強会】の日です。
 この日は、わたるが試作した治具じぐを使いながら、直美がフライス盤の扱い方を悠介に教えることになりました。
 誰にでも得手・不得手はあるもので、亘は神がかり的な旋盤の名手でしたが、フライス盤を使うのは苦手でした。逆に、直美は他の誰よりもフライス盤の扱いが巧く、旋盤は小型か中型機でないと扱えませんでした。
 悠介も、どちらかといえばフライス盤が得意でした。とはいえ、それは怪我をする前のことです。

 この会社では通常、フライス盤を用いて小さなプラスチック製品に穴をあける場合、まずは製品そのものを手に持ちやすい大きさの四角い治具にめ込み、左手に持ったその治具を、予め位置を調整してフライス盤のテーブル上に固定しておいた別のL字型の治具の、内角の部分に押し当てながら、右手でレバーを下ろします。そうすれば、高速回転する主軸に取り付けた刃物が下がってゆき、テーブル上の製品を穿ちます。(レバーそのものが機体の右側にあるので、利き腕に関係なく、職人は右手でレバーを操作することになります。)治具にまで穴をあけてしまわないよう、テーブルの高さや、レバーの下ろし方にも、細かな調整は必要です。
 レバーを下ろすことに関しては何も問題は無さそうでしたが、今の悠介には、製品を押さえられる「左手」がありません。そこで亘が端材を使って試作したのが、残った腕に装着し、手指の代わりに工作物を固定するための新たな治具でした。腕の断端にめる「ソケット」や、簡単には外れないよう肩や背中にベルトを回して固定する「ハーネス」に関しては、専門書で調べた能動義手を参考にしましたが、手先はお世辞にも「義手」とは呼べない形で、誰もがそれを「治具」と呼びました。(テーブル上に固定してあるものとは、逆向きのL字型……といったところでしょうか。文字をカギ括弧で括るかのように、製品を嵌めた直方体を2つの治具で挟むのが狙いでした。)
(※治具じぐ……製造業の用語。製品の加工や組立てをする際に、機械の操作や工作物の位置決めを容易かつ安定的に、あるいは安全に行うために用いる器具のこと。)
 ソケットに関しては「腕が抜けないように」と かなり気を遣いましたが、ドリルに巻き込むかもしれない手先の部分は、むしろ簡単に外れるように作りました。万が一の時は先だけが外れ、本人の身体は守れるように設計してあるのです。

 テーブルの高さ、主軸の回転数、固定治具の位置は、直美が完璧に調整しました。あとは、悠介に思う存分 練習をしてもらうだけです。もし上手く出来れば、アルバイトの人達が穴をあけたものと同じように、出荷へ向けた次の工程に回します。
 とはいえ、今日は何百個 失敗したって良いのです。亘が作った試作品が、使いものになるかどうかさえ、まだ判らないのです。
「ゆっくりで良いからね。とにかく、怪我しないように……」
「は、はい」
機械に向かう悠介を、亘と直美は危険が及ばない位置から見守ります。3人とも、今日は きちんと安全メガネをかけています。(常時きちんとかけているのは、実は直美だけなのです。)

 フライス盤のスイッチを入れる前に、何度かイメージトレーニングをしてみます。
 自分の腕ではない「棒」を介して何かを押さえつけるというのは、初めは なんだか妙な感じがしましたが、燃え盛る炭を火バサミで いじるとか、孫の手で背中を掻くとか、食材をフォークで押さえながら切るといった動作と……あまり変わらない気がしてきました。

 それでは……いざ、本番。
 スイッチを入れたら、ゆっくりとレバーを下げ、穿ち、再び上げます。そして、すぐにスイッチを切ります。……寸法は ともかく、ちゃんと穴があきました。
「おおぉ!!!」
3人揃って歓声をあげ、亘がさっそくノギスでそれを計ります。
「……一発OKじゃないか」
「マジすか!?」
皆、思わず笑みが溢れ、難しい実験の成功を喜ぶ研究者達のように、大いに盛り上がりました。

 その後も、何十回と練習をしました。
 いくつかは失敗しましたが、ほとんどは成功し、きちんと仕上げの加工をすれば、製品として出荷できそうでした。
「やっぱり、松くんは器用だねぇ」
「いや、亘さんこそ、凄いもの作ってくれたじゃないすか!」
「凄かないよ、こんなの!ただの『工作』レベルじゃないか」
3人ともが朗らかに笑い、喜びを分かち合いました。声を聞きつけた常務もやってきて、彼らの成功を祝福しました。

 
 そこへ、普段なら この会には寄り付きもしない睦美むつみが突然 現れて悠介を呼びつけ、どこかへ連れて行きました。
 どちらも なかなか戻ってこないので、常務は煙草を吸いに行き、亘と直美は翌日に備えて検査室とその周辺の整理・整頓を始めました。
(※検査室……完成した製品の検品・梱包をする部屋。)
 6帖くらいの室内が粗方 綺麗になったら、次は現場に繋がる扉を開け放ち、検査室内に放置されていた、製品を入れて運ぶためのカゴやトレーといった物品を、現場内のあるべき場所に戻していきます。2人で、現場と検査室を何度も往復します。

 20分くらい経った頃、やっと戻ってきた悠介は、何も言わずに突然、検査室にあったパイプ椅子のひとつを蹴り飛ばしました。そして、部屋の隅まで飛んでいった それを追いかけるように歩み寄り、拾い上げると、今度は何度も床に叩きつけ、踏みつけ、また蹴り飛ばし、終いには めちゃめちゃに壊してしまいました。金属製の椅子がバキバキに壊れていく大きな音で、マスクを着けた悠介が何を叫んでいるのかは、よく判りませんでした。
 悠介が入ってきたのは、亘達が出入りしていたのとは、違う扉です。2人は ちょうど検査室に戻ろうとしていたのですが、突然 反対側から入ってきて暴れ出した悠介を前に、動けずにいました。
「悠さん!!どうしたんですか!!?……兄貴と、何かあったんですか!!?」
亘は驚きのあまり何も言えませんでしたが、直美は部屋の外から彼に呼びかけ続けました。しかし、悠介は完全に『キレて』いて、気付きません。
 亘は、直美が室内にまで入っていかないよう壁になりながら、暴れ回る悠介が自分達を狙ってはこないかと警戒せずにはいられませんでした。
「直ちゃん、常務を呼んできて!」
「はい!」

 直美が喫煙所へと走り去り、亘は彼との【一騎討ち】さえ覚悟しましたが、悠介は、椅子をひとつ破壊し尽くしたら、急に大人しくなりました。
 床に片膝を着いて しゃがみ込み、頭を抱えて震え始めた悠介の顔のあたりから、絶えず何かが滴ります。初めは透明な雫ばかりが床に落ちましたが、やがて……赤色のものが現れました。
(血だ……!!)
亘は反射的に駆け出し、悠介の側に しゃがみました。
「松くん、大丈夫かい!?怪我した?」
 彼は、ぶるぶる震えながらマスクを下げて苦しそうに喘ぎ、眼を真っ赤にして涙を流し、鼻血も出ていました。……興奮しすぎたせいでしょうか。
 亘は作業用の机に置いてあったティッシュを、箱ごと持ってきて差し出しました。しかし、悠介は受け取ろうとはしませんでした。ずっと、小さな声で「すいません……すいません……」と繰り返しながら、泣いているばかりです。
「いいんだよ、椅子なんか……また買えばいい」
「すいません……」
「睦美と、何があった?」
「すいません……」
同じことしか言わない悠介の眼を見て、亘は「まずい」と感じました。まるで焦点が合わず、ずっと左右にフラフラ動いているのです。高速回転し続ける軸や刃物に、長い時間 向き合っていると、多少は目が回ってしまうものですが……ここまで酷い状態になっている人を、亘は初めて見ました。
「松くん……?」
目が回っているというより、気を失いかけているように見えました。

 そこへ、直美が呼んできた常務が駆けつけ、悠介の様子を見るなり、亘が持っていた箱からティッシュを何枚も引き抜きました。そして、一切 躊躇ためらわず、ボクシングの試合中に選手が鼻血を出した時にセコンドがやるように、血が出ているほうの鼻の穴にティッシュを詰めてから、本人には少しだけ下を向かせ、鼻の上部を、力を込めて摘みました。そうやって止血をしながら、まだ震えている悠介の背中を、後ろから支えてやります。
「……常務。俺、吉岡先生に電話してきます」
「それが良いね。……迎えに来てもらおう」

 事務所の固定電話には、悠介が暮らす家の主・絵本作家の吉岡先生の電話番号が登録されています。先生は、この会社の主要な株主でもあるからです。
 亘が電話口で悠介の状態を伝えると、先生は二つ返事で「わかった。迎えに行く」と言い、すぐに電話を切りました。

 電話を終えた亘が検査室に戻ると、悠介は相変わらず常務に支えてもらいながら座り込んでいましたが、左腕に着けていた治具は外されていました。ゴミ箱には血まみれのティッシュが山盛り入っていて、椅子の残骸は無くなっています。
 常務が言うには、直美にはフライス盤周辺の片付けと、戸締りを命じてあるそうです。
「亘ちゃんも、今日はもう着替えて『あがり』にしてくれるかい?……吉岡ちゃんが来たら、僕らも帰ろう」
「わかりました……」
 ほとんど放心状態の悠介に、常務は「先生が来てくれるからね」と優しく語りかけましたが、彼は相変わらず「すいません」か「ごめんなさい」しか言いません。
 亘は、更衣室から悠介の荷物を取ってきてやることにしました。本人に「ロッカーの鍵を貸してくれ」と言うと、彼はズボンのポケットから、ありったけの鍵を出して床にぶちまけてくれましたが、それっきり動かなくなりました。亘は、そこからロッカーのものを選んで拾い上げ、着替えに行きました。

 着替え終わった亘は、自分と悠介のタイムカードを切ってから検査室に戻り、悠介の見守りを常務と交替しました。
 彼の眼球の揺らぎは少し落ち着き、壁に背中を預けた状態で座り込んで、直美が自販機で買ってきたという水を ちびちびと慎重に飲んでいました。(水の話は、常務から聴きました。直美本人は、ここには居ません。)
 亘は、彼のリュックを本人に返してから自分のリュックを降ろし、彼と同じ壁に背中を着けて、隣に同じように座りました。
「少しは落ち着いたかい?」
「はい……」
返事をした後、悠介は改めて「本当に、すみません」と詫びながら、また涙を零しました。
「もう、気にしないで。製品は何も傷付いてないから……」
本当は、同じ部屋にある精密測定器のことが心配でしたが、今の悠介にそれを言うべきではないと判断しました。
「どうせ、あいつが何か馬鹿みたいな事を言ったんだろう?」
「まぁ……そうっすね……」
「本人を殴らなかっただけ偉いよ」
残念ながら、この会社では血気盛んな職人達の「殴り合いの喧嘩」は、珍しくないものでした。業務そのものが なかなかの緊張と興奮を伴うため、ほとんどの職人は頭に血が昇りっぱなしなのです。社内の人間は そのたかぶりを【気合】とか【覇気】と呼んで、それをぶつけ合うことを必ずしも否定はしませんでしたが、見る人によっては「暴力」であり「パワハラ」なのでしょう。……亘個人の認識としては、現場で言い争ったり殴り合ったりするのは、ただひたすらに「時間の無駄」でした。会社の将来のために建設的な議論をするなら、お互いが冷静な時に静かな場所で話さなければ無意味だと思っていました。
「睦美は『問題児』だからね……。みんなを怒らせてばかりだ」
亘自身も、睦美のことは大嫌いでした。ただ、この場でそれを言ってしまうほど、浅はかではありませんでした。
 悠介は、子どもが ぬいぐるみを抱くかのように、自分のリュックを両腕で抱えながら言いました。
「俺、今日……本当に楽しかったんすよ。また、前みたいにフライスが出来て……。すごく嬉しかったんすよ……!!なのに、睦美さんが……死ぬほど くだらない、明日でもいいようなダメ出しを、わざわざあのタイミングで しに来て……!」
「なるほどねぇ」
悠介の心理は、解る気がしました。久方ぶりに「かつての自分」を取り戻せたような、大きな喜びや達成感を、悪意を持った先輩の『お小言』で台無しにされた挙句、練習に使える貴重な時間まで奪われたのですから……怒りを抑えきれなかったのでしょう。
「俺、もう……あの人に会わなくていい金曜の夜だけを楽しみに、生きてるような状態で……」
 睦美からの冷遇は、亘が把握していた以上に酷いものだったのかもしれません。睦美は、あまりにも短気なため製品の寸法間違いが多く、尚且つ他者との口論が絶えないため、工場長が、あえて人目につく事務所に送り込んで、そこで内職や素材の発注、運送業者への対応をやらせていたのです。悠介が入社した時「睦美が何か酷いことをしても、事務所には専務が居るのだから、止めるだろう」と考え、空き時間の多い睦美を指導役に付けたのですが……失敗だったようです。
 真面目すぎる悠介は、睦美の軽口や戯言を、ほとんど全て真に受けて、心を傷めていたようです。
「……先生とは、会社のことは話さないの?」
亘の問いに、悠介は黙り込んでしまいました。
「まぁ……普通は『大家さん』となんて、会話らしい会話、しないよね」
 亘は、悠介と先生の関係性については、単なる「大家と棚子」だと思っていました。5〜6人が住めるような広い家に1人で住んでいる先生が、余っている部屋を知人に格安で貸している……くらいに思っていました。
 とはいえ、彼の具合が悪ければ大至急 迎えに来てくれる、優しい大家さんなのです。

 亘には4歳の娘がいるので、吉岡先生の絵本を書店で読んでみたことがあるのですが、対象年齢が「小学校 中学年から」に設定されているだけあって、漢字も多く、娘には まだ難しそうな話でしたが、亘自身が深く感銘を受け、迷わず買いました。

「俺は……吉岡先生の絵本、好きだよ」
急に話題が変わり、悠介は驚いた様子でしたが……やがて少年のような笑顔になって「俺もです」と言いました。
「素晴らしいよねぇ。絵が綺麗だし……何より、ストーリーが深いじゃないか。大人が読んでも、充分読み応えがあるよ」
亘がそう言うと、悠介は頷きました。
 それからも、先生が到着するまでの間、2人は様々なことを話しましたが、いつの間にか睦美の話は一切 出てこなくなりました。そうしたら、悠介は だんだん元気になっていきました。


 亘は、無口で従順なはずの悠介が、毎日 特定の時間帯にだけは別人のように気性が荒くなることや、その時間帯に備えて結構な量の薬を隠れて飲んでいることに、早くから気付いていました。だからこそ、飲んでいるのが「精神疾患の治療薬」であることも、すぐに察しがつきました。
 亘は、必要以上に同僚と関わろうとはしない性格でしたが、悠介だけは、状態が今より悪くならないよう気にかけてやろうと、密かに決めていました。これほど勉強熱心で、あの石川常務が『後継者候補』と認めた優秀な職人を、そうそう簡単には失いたくなかったのです。


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