見出し画像

小説 「僕と先生の話」 2

2. 顔合わせ

 善治に連れられ、辿り着いた先生のご自宅は、小高い山の上にあって、駅から歩くには少し遠かった。
 ありふれた外観の、建て売りらしい民家で、一人で住むには広すぎるように思えた。  
 ガレージには、黒い軽自動車が駐められていた。

 久しぶりの登り坂で、僕は少し息があがっていた。
 善治は、我が物顔で郵便受けの中を見てから、無言でインターホンを押し、間髪入れずに、持っていた鍵で玄関を開けた。この家に来たら、いつもそうしているらしい。さすがは姉弟だ。今日は事前に連絡をしてあるとはいえ、まるで遠慮がない。

 物音を聴きつけて奥から出てきた先生に、僕はお辞儀をして挨拶した。先生は、会釈を返してくれた。
 先生と善治が手話で何か話している間、僕は黙って待機していた。

 先生は、とても四十代には見えない若々しい人だった。化粧っ気は無くて、髪は外国の女性アスリートみたいに短く刈り上げてある。痩せ型ではあるけれど、がっしりとした骨格で、男の僕よりも背が高い。
 絵の具だらけの黒っぽい作業着を着て、捲りあげた袖から出ている逞しい腕にも、色とりどりの絵の具が付いている。血管が目立つ大きな手は、爪の中にまで濃紺の絵の具が染み込んでいる。
 先生は、眉間に軽く皺を寄せ、初対面の僕を、少し警戒しているようにも見えた。
 しかし、その姿が、かっこいい。凛々しい顔立ちに、仕事に対する意気込みを感じる。シンプルなデザインの眼鏡が、よく似合っている。

「よし」
先生は、そう呟いて、僕のほうを向いた。
「よく来てくれた。面接をしよう」
どこかの偉い博士みたいな、はきはきとした喋り方だ。「コミュニケーションが苦手」という感じはしなかった。


 僕だけが案内された応接室で、テーブルを挟んで先生と向かい合わせに座り、僕は履歴書が入った封筒を手渡した。
「善治の同僚だそうだね」
「はい……」
「今の仕事が、辛いのかい?」
 僕が黙り込むと、先生は封筒にはさみを入れながら、静かに笑った。
「あいつが連れてくる人は、みんなそうだよ。あいつは、ああ見えて人脈が広いんだ。誰かが『今の仕事が辛い』と相談してきたら、親身になって動いてやるし、私と気が合いそうな人材だったら『そんな所は辞めて、うちに来なさい』と言うんだ」
 今は笑っているけれど、この先生も、善治の奥さんのことを、知っているはずだ。
「会社に居る時でも、社外の誰かと、そんなメールばかりしているはずだよ」
「僕は、善治さんを尊敬しています」
「そうかい?……嬉しいね」
 先生の笑い方は、善治とよく似ている。姉弟揃って、綺麗な歯を見せながら、少年のように、にやりと笑う。

「じゃあ、本題に入ろうか」
 真面目な顔に戻った先生は、僕の履歴書を、大事そうに持ってくれていた。


 僕は、いつものように、正直に全てを白状した。先生からの質問には、嘘偽りなく答えた。
 先生は、冷静に淡々と質問を投げかけ、僕の答えを、興味深そうに、しっかりと聴いて、要点はノートに書いてくれた。
 飲んでいる薬の名前まで訊かれた時は、少し驚いたけれど、正直に「忘れました」と答えた。
「自分が毎日飲んでいる薬の名前は、しっかり憶えておいたほうがいいよ」
「気を付けます……」
 雇用主に、処方薬まで教える必要は無い気がする。

「何年くらい、通院しているんだい?」
「5年くらいですかね……」
「ご家族は?」
「居ません。両親は、既に他界しています」
「一人で、アルバイトの収入だけで、生活しているのかい?」
「両親の遺産と、若い頃に貯めた、貯金が少しはあるので……それを崩しながら……」
「なるほど」
 なんだか、就職のための面接というよりは、いつものように心療内科で診察を受けているみたいだった。

「ハウスキーパーの経験は?」
「ありません」
「今、一人暮らしをしているなら、家事なんて一通りできるだろう?似たようなことを、この家でしてくれればいいんだ。
 毎日でなくともいい。来れる時に来て、できる範囲で、私の頼みを聴いてくれればいいんだ」
「具体的には、どのような事ですか?」
「いちばん頼みたいことは、食材の買い出しと、料理なのだけれども……お願いできるかい?」
「僕、プロみたいな料理はできませんよ」
「プロみたいでなくていいんだ。私が栄養失調にならなければ、それでいい」
「栄養失調……」
「私は、創作に夢中になると、すぐに食事を疎かにしてしまうからね……それで、何度か入院したよ」
「え?」
「担当の編集者が、見かねて食事を作ってくれたこともあったなぁ」
 先生は自虐ネタのつもりなのだろうけれど、僕は笑うことができなかった。

「よし。それでは……坂元くん」
そう言いながら、先生は僕の履歴書を封筒に戻し、その封筒を、さっきまで情報を書き込んでいたノートに挟んだ。
 僕は小さく「はい」と返事をして、姿勢を正した。
「私の仕事場を、見学に来たんだろう?案内しよう」
「お願いします」
 ノートを手にした先生の後について、僕は応接室を出た。


次のエピソード
【3. 先生の仕事】
https://note.com/mokkei4486/n/n190666190dfd

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?