小説 「長い旅路」 34
34.家族
ずっと「課長」と呼んできた人を、俺はいつしか「隆一さん」と呼ぶようになっていた。亡くなった時点での彼の役職は課長ではなかったし、俺自身が、あの会社を辞めて久しい。単なる一人の人間として、一人の故人を偲びたかった。
俺は、相変わらず隆一さんの「声」を日常的に聴いている。決して「霊感がある」とかではない。彼が生きているうちから、この病理的な幻聴は続いている。
しかし、俺はそれを医師に話したことはない。薬か何かで、この「症状」を消されてしまったら……俺は、二度と彼とは話せなくなる。それは、居た堪れない。
今の俺には恒毅さんというルームメイトが居て、彼は「頭がおかしい」としか云いようのない俺を、決して厭わない。いつも笑顔で、俺の ほとんど全てを肯定してくれる。俺が、未だに隆一さんを忘れられないことも含めて……。
その日、俺は恒毅さんから「一緒に買い物に行こう」と誘われ、特に体調は悪くなかったので同意した。何を買いに行くのかという俺の質問に明確な答えは無く「気晴らしに近場のショッピングモール内を見て廻りたい」というのが趣旨らしかった。
地下鉄を使えば、すぐに行ける。何ら抵抗は無かった。
目当てのショッピングモールに着いたら、まずは書店に直行した。読書家の彼は、最新刊や売れ筋の書籍を片っ端からチェックしていく。俺は、彼が熱心に見ている棚から離れた場所で、自分が興味のある野生動物にまつわる本ばかりをパラパラとめくっては棚に戻していた。残念ながら、この店では「買おう」と思えるほどの良質なものには出会えなかった。奇を衒ったタイトルや煽り文句、本文の語り口からして、テーマそのものの扱いが「軽い」という印象が否めない。そして、このような書籍が本当に「人気」なのだとしたら、現代の日本人の大半は、動物達への【敬意】が足りない。
彼だけは気に入った文庫本を1冊買い、その後は2人で広大なモール内を見て廻った。
衣類は充分足りているし、音楽やゲームソフトには興味が無いし、雑貨屋にも用は無い。俺には「見たい」と思える店は無く、彼の物欲や興味の赴くまま、結構な歩数を歩いた。満足のいく運動量が確保できて、俺は心地良かった。
帰り際、レストランフロアの一店舗に入り、手頃な価格帯のうどんを食べた。
食事が終われば まっすぐ帰ると思い込んでいたのだが、彼は「もう一箇所だけ、行きたい所がある」と言った。
モールを出て、10分かそこらで着いた場所は宝石店だった。俺には縁遠い世界で、このような店に入ったことは一度も無い。
恒毅さんは、迷わず中に入っていく。腕時計でも見に来たのだろうか……?
俺も、黙ってついて行く。
俺達が入店するなり、短髪で恰幅の良い女性店員が声をかけてきた。母と同年代だろうか。気品と貫禄を兼ね備えた彼女は、店長か、それに匹敵する重要な役職者に思えた。
恒毅さんは、至って冷静に答えた。
「彼とのペアリングを探しに来ました」
俺は、耳を疑った。事前には何も知らされていない。第一、男2人で揃いの指輪など買いに来たら……店員からの嘲笑や侮辱は避けられないだろう。そう思っていた。
しかし、その店員は全く動じなかった。至極当たり前のように、俺達を「結婚指輪」と「婚約指輪」が並ぶショーケースの元へ案内し、使用されている貴金属や宝石について簡単な説明をし始めた。そして、それらは基本的に男女で対となることを想定した商品だが「男性用2つでご購入いただくことも可能です」とのことだった。
本当に、時代は変わった。それを実感した。……そして、変えたのは拓巳達だ。
俺が拓巳とのペアリングを買った時は、自分達がゲイカップルであることを誰にも知られないために、まずは拓巳が一人で買いに行き、後日、俺が同じデザインのものを一人で買いに行ったのだ。貧乏学生でも手が届くシルバーアクセサリーで、刻印もケースも無い安物だった。……それでも、2人でそれをはめて出かける日は、俺達にとって非常に重要で、特別だった。
今は、そんな七面倒くさいことをしなくていいのだ。堂々と2人で店に行き、指輪が欲しいと言えばいい……。もちろん、日本中の全ての宝石店がそうではないだろうが、拓巳達の活動は、間違いなく日本の風潮を変えている。
胸が熱くなり、過去の出来事や拓巳のことばかりを考えていたら、店員の説明は途中からは全く頭に入らなかった。彼女はカタログを見せながら丁寧に語ってくれたようだが、俺は恒毅さんに「よく聞こえなかった」と嘘をついた。彼は、快く解説をし直してくれた。
俺は、彼のその厚意に感謝しつつも「ルームメイトが高価なペアリングの購入を考えている」という現実に、どう対応すべきか迷っていた。少なくとも俺は、彼のことを「同じゲイである大切な友人」と捉えている。しかし、彼のほうは……明らかに、俺を伴侶の候補として見ている。今日は品揃えや価格帯を見に来ただけかもしれないが、いつか本当に指輪を買ったら、次は役所で【宣誓】をしようと提案されるかもしれない。
(※自治体独自の『パートナーシップ条例』等に基づく宣誓を行い、その証明書を受け取ること。)
俺は……彼に頼りきりの「ヒモ」だ。それも、単なる「無職の男」ではなく、今後も就労できる見込みは薄い重複障害者だ。俺から彼に返せるものは、何も無い……。誰かの伴侶として、認めてもらえるような人間ではない。
目線こそショーケースの中身に向いているが、頭では全く別のことを考えている。そんな俺に気付いたのか、恒毅さんは「今日はカタログだけ貰って帰ろう」と言った。
店を出てから家に帰り着くまで、俺は一言も発さなかった気がする。まるで、父と外出した日のような感覚だった。頭の中で、過去の出来事ばかりが目まぐるしく蘇っては消えていき、目に映っているはずの光景が、現実ではない「映像」に思えてくる。頭の中を巡っている、夢のような何かのほうが、より鮮烈で臨場感がある。そちらを注視することを優先してしまう。
そんな状態に陥っていても、俺は脱力せずに歩くことができる。それが原因で事故に遭ったことも無い。
しかし、同行者は不安に思うだろう。
ふと、家の玄関に座り込んでいる自分に気付き、その直後、恒毅さんが俺の靴を脱がせるかどうかで迷っているらしいことに気が付いた。
「和真、自分で脱げる?…………少し休みたい?」
彼は いくつかの問いかけをした後、小さな声で「参ったなぁ……」と呟いた気がした。
俺がおもむろに自分の手で靴を脱ぎ始めると、彼は安心したような声で何かを言いながら、先にリビングに向かって歩いていった。
俺がそちらに到着すると、彼はすぐ謝りに来た。
「ごめんよ、疲れさせて……。布団敷いてこようか?」
「自分で します」
彼の表情からは、心配や不安が見て取れたが、俺は特に言及せず、手も洗わないまま寝室へ行って戸を閉めた。
丁重に敷いた布団に、動物のように背を丸めて潜り込んでいると、聴き慣れた声がし始めた。
(“倉ちゃん達、いよいよ『結婚』するのかぁ!”)
彼の姿は見えないが、あの笑顔は容易に思い出せる。
「できませんよ、俺達は……」
俺はもう、隆一さんとの会話を他者に聞かれることを恐れなくなっていた。街中でも、自宅でも、平気で彼に言葉を返すようになった。できるだけ小さな声で、とは心がけているが。
(“でもさぁ。『結婚指輪』を買って『お役所で紙を出す』んでしょ?……やることは『結婚』と変わらないじゃない”)
俺達が本当にそんなことをするかどうかは、まだ分からない。そして、本当にしたとしても、それは「結婚」ではない。
「気休めみたいな、代替法でしかないのですよ……」
いわゆる「パートナーシップ条例」は、日本中全ての自治体で施行されているわけではない。その制度が無い所へ引越せば、伴侶であることの証であるはずの「宣誓書」は単なる紙きれとなり、当事者2人は強制的に「ただのルームメイト」扱いに戻ってしまう。法的な「婚姻」をした夫婦であれば、日本はおろか世界のどこで暮らそうと「夫婦」であり続けられるにも関わらず……。
不公平だ、とは思う。しかし、俺はもうこの分野に関しては拓巳達に任せることにしている。俺自身が、彼らの率いる【活動】に参加する気は無い。
隆一さんは、今日は珍しく長い時間話してくれる。しかし、俺は途中から応答するのをやめた。……睡魔には抗えなかった。
それから、数時間は寝たのだろう。目を覚ますと、外は完全に暗くなっていた。時間を確かめようと手探りでスマホを探していたら、急に部屋の灯りがついた。……恒毅さんが、夕食が出来たと伝えに来たのだろう。
起こされる前に、俺は自ら起き上がった。彼は、すごすごと俺の前にやってきて腰を下ろした。手にはスマホを持っている。
「おはよう、和真。食欲ある?」
食欲はあるが、それよりも先に言いたい事があった。
「恒毅さん……どうして、俺みたいな『ヒモ』に、指輪なんか……」
「何がヒモだ!和真は、立派な主夫だよ!」
「俺、料理まったくしてません……」
「掃除と洗濯は完璧じゃないか」
それさえできずに寝込んでいる日も多い。
やがて、彼は慣れた手つきで素早く文章を打ち、俺のスマホに送ってきた。
【ごめん。今日のあれは『サプライズ』のつもりだったんだ。和真の、指のサイズも分からなかったし……一緒に行って、店で測ってもらおうと思ったんだ】
それを読んだ俺は「どうして……」と、呟くことしかできなかった。
彼は、まっすぐに俺を見て告げた。
「僕は和真が好きだ」
どうして、彼は、こんな身体も精神も壊れきったような人間を「好き」と言い切れるのだろう。俺は、彼の負担を増やすばかりで、ほとんど何の役にも立っていない。……折に触れて感じる、彼の、滾るほどの性欲にも応えられない。
それなのに、彼は……俺を選んでくれた。その真剣な眼差しが、痛いほどだ。
「いずれは【家族】になりたいと思っているんだ」
「ですが、この国で、それは……」
「できる」
目を伏せようとした俺に、彼は力を込めて断言した。あの条例の話をし始めるに違いない……そう思っていた。
「岡本太郎を知ってるかい?」
「……『芸術は爆発だ』の人でしょ?」
いきなり、何の話だ?
「そうだよ。彼は、あえて結婚をしないで、パートナーを『養女』にしたんだ」
それは知らなかった。……男女間で、そんな選択をするメリットは何だ?
「僕らも、養子縁組で【家族】になれる」
それは……確かにそうだ。引越しごときでは解消されない、紛うことなき【戸籍上の家族】となることは、今の法律でも可能だ。
その場合、2つ歳上の恒毅さんが「親」となり、俺は「息子」となる。そして、2人の姓は親側の「小野田」で統一しなければならず、逆は許されない。
「どうして、そこまで……」
「僕は、和真が好きだから」
(何故……)
再び、スマホに文章が送られてきた。
【僕は、和真の具合が悪い時、診察室まで一緒に入れる存在でありたい。……僕が死んだ後、全ての財産が和真に遺るようにしたい】
診察室の件は……確かに重要だ。俺の代わりに、医師からの説明を憶えていてくれる人は必要だ。
彼は、切実に訴えかけてくる。
「法律が変わるのなんか、待ってられない!」
本当に変わるかどうかも分からない。「同性婚を認めたら、少子化が更に加速する」などと、的外れな危惧をし続けている政治家は山ほど居る。しかし、政府が国民の「繁殖」にまで言及するのは変だ。まるで、人間の男女を、動物のつがいと同一視しているかのようではないか。もちろん、国家としては未来の納税者たる「子ども」が切実に欲しいのだとは思うが、今なお少子化が止まらない最大の要因は、経済状況にあるのではないのか……!!?「男女」が結ばれさえすれば、国民の数が増えていくと思ったら、大間違いだ。
悶々と考え込んでいる間、俺はきっと、ろくでもない顔をしていただろう。恒毅さんは、何かを諦めたかのような表情を見せている。
「僕では、駄目かい?」
決して、そんなことはない。ただ、俺には全く別の心配事がある。それだけだ。
あまりにも真摯な【プロポーズ】に、俺は即答など到底できなかった。
「しばらく……何日か、考えさせてください」
「もちろん」
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