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小説 「僕と彼らの裏話」 39

39.暗夜が迫る

 初めて、車で出勤した日。僕は荷物をロッカーにしまうなり、常務のもとへ急いだ。愛機の側で図面を睨んでいた彼は、朗らかに笑って迎えてくれた。
「おはよう、坂元ちゃん。ご結婚おめでとう!」
「恐れ入ります」
お辞儀をしてから、僕は2階の持ち場に直行する。必要な図面や資材は、全てそちらにある。

 連休明けで体力に余裕があるためか、作業は順調に進んだ。
 あっという間に、夕方の休憩時間がやってくる。

 食堂で、今まで通り常務と向かい合わせになって弁当を食べていると、常務が「あのねぇ、坂元ちゃん」と切り出した。
「僕ね……急遽、今月で『終わり』になったんだ」
「えェっ!!?」
驚きのあまり、変な声が出てしまった。それについて謝ってから、僕は弁当と箸を持ったまま改めて尋ねた。
「来年の4月というお話では、ありませんでしたか?」
「うん。そのつもりだったんだけど…………実を言うと、奥さんの体調が良くないんだ」
「そ、そうでしたか……」
それは、致し方のないことだろう。しかし、社内最高の売上額を誇る現場責任者の引退が早まれば、社内は大混乱するに違いない。
 かつて見た「戦場」の光景が、脳裏をよぎる。この会社までもが、あんな風になってしまうのは……悲しい。
 しかし、常務は残される人々のことについては、何も言わなかった。
「坂元ちゃんも、奥さんは大事にしなよ」
「は、はい!それは、もちろん」
僕の答を聴いた常務は、何も言わずに、ただ満足げな笑みを返してくれた。ほとんど目を閉じて何度か頷いてから、何かを思い出したように「あぁ」と呟き、いつもの冷静な顔つきに戻った。
「僕、松尾ちゃんの連絡先、知らないんだ。坂元ちゃんから……よろしく言っといてね」
「わかりました」
「僕がもう居ないって知ったら、焦って復帰したがるかもしれないけど……それだけは、させないで。本当に身体が良くなるまで、しっかり休ませて」
「……承りました」


 常務が居なくなると知った途端、世界が違って見えた。あの常務は、社長や その兄が生まれる前から此処で働いてきた【生き字引】であり、多くの若手にとって、重要な「ロールモデル」であったはずだ。
 西島工場長が「太陽」であるならば、石川常務は「月」だろう。
 その偉大な人に、教えを乞うなら今しかない。
 そして、考えることは皆同じであるようで、これまでは一人で居ることの多かった常務が、常に、誰かしら若い人に、何かを教えている。皆、彼が居るうちに訊いておきたい事が、山とあるのだ。
 彼と同じように21時以降まで頑張る人の数が、急激に増えた。彼らは、それを残業ではなく「居残り」と呼び、その時間帯の現場は、純然たる「学び」と「修練」の場であった。

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 勉強熱心な正社員達に混じって、納得いくまで研削盤の練習に励んだ後、一言だけ千秋にLINEを送信し、やけに空いている夜道を走って、新居に帰る。人気ひとけの無い地下駐車場を抜け、オートロックを解除してエレベーターに乗ったら、それは7階に着くまでの間、一度も止まらなかった。
 のろのろと廊下を歩いていって、独り言のように「ただいま」と言いながら、玄関の戸を開ける。
 玄関や、そこから奥へ伸びる廊下には、特に異変は無い。千秋は、今日も丸一日 家に居たのだろう。
 脱衣所でドロドロの作業着を洗濯機に入れてから、から同然のリュックを背負ってリビングへ行くと、千秋が「おかえり!」と言って迎えてくれた。僕は改めて「ただいま」と言う。
 彼女は、今夜もゲームに忙しいようだ。派手な色彩の陣取りゲームで、インターネットを介して、誰かと通信対戦をしているらしい。
「風呂 入ってくるね」
「はいよー」

 シャワーを浴びた後、悠介さんと同じように「2度目の夕食」を摂るべく、頭を拭きながらリビングへ戻る。(僕は、ドライヤーを使わない。)
 彼女は相変わらず同じゲームをし続けていて、ゲーム用ソファーから動かない。
「そういえば……昼間に、なんとか真澄さんって人から、書留 来たよ。稔に」
それは、マッサンの本名だ。
 彼女に「友達?」と訊かれ、しばし答えに迷った。頭に、日本語が浮かばない。
「まぁ、そうだね……。元は、父さんの知り合いなんだけど……」
僕は、今にも「寝落ち」しそうだ。眠くて堪らない。千秋が再び何か言ったような気がしたけれど、応える気力が無かった。頭を拭くのでさえ、億劫だ。
 冷蔵庫から出した おかずを電子レンジで温める間に、食卓に置いてあった現金書留を開封する。
 中身は、ありがたいことに御祝儀で、僕はそれを千秋に見せに行ってから、戻って黙々と食事をした。食べながら、彼女がゲームを切り上げて御祝儀袋を手にし、観察してから開封する様を、なんとなく眺めていた。
 明日にでも、マッサンには お礼の電話をしなければならない。

 機械的に飯を噛みながら「奥さんは大事にしなよ」という、常務の言葉を反芻する。
(します。もちろん、します……。この命に換えても……)
頭の中でだけ答を念じ、どうすれば その誓いを示せるか、しばらく考える。
 指輪を買うくらいでは、足りない気がした。そんなことは、ありきたりで安直すぎる。

 何か、彼女が心から喜ぶ、何かを……これから、探さなければならない。


次のエピソード
【40.急転直下】
https://note.com/mokkei4486/n/n88abf0f47042


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