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小説 「僕と彼らの裏話」 21

21.初心に還る日

 次の出勤日。久方ぶりに「先生と2人きり」の一日となった。
 昼食時、僕は先生に経緯を話し、宮ちゃんを交えた食事会に お誘いした。先生は、二つ返事で了承してくれた。
 そして、哲朗さんも誘うことが決まった。僕としては、住宅探しに協力してもらった お礼がしたかったし、宮ちゃんに彼を紹介したかったのだ。
「お店選びは、君に任せるよ」
「わかりました」
豚肉を使わないメニューが多数あって、可能なら「一人前」が一つのプレートに載って出てくる店が良い。そして、出入り口付近に階段が無くて、席が座敷ではない所が良い。
 帰ってから、よく調べよう。


 今日は、空いた和室を徹底的に掃除する。いずれ、再び ここに哲朗さんや子ども達が泊まるかもしれない。畳の上は、掃除機で埃を吸うだけでは飽き足らず、硬く絞った雑巾で、入念に拭きあげる。
 この部屋にあった布団は、全て2階のベランダに干してある。殺人的とさえ言える夏の日差しによって、日光消毒は完璧だろう。
 床の間に飾ってある、何年も前に先生が描いた絵には、そっとハタキをかける。本来なら水墨画や書を吊るす場所かとは思うけれど、ここには、四角い額に入った「アボリジナル・アート」を模した絵画が飾ってある。
 先生ご自身は、単なる習作のつもりで描いたと云うけれど、その絵は悠介さんの【宝物】である。「自分が死んだ後、棺桶に入れてほしい」と言うほどの、強い思い入れがある一枚なのだ。

 今は冷涼な地域に居る彼が、羨ましい……。
 僕は、何年経っても、この近畿の溽暑じょくしょには慣れない。屋外の尋常ではない蒸し暑さと、冷房の効いた室内や電車内との「温度差」が、辛い。
(宮ちゃん、大丈夫かな……)
北海道民には、辛いだろう。
 気候を体感して「こんな土地に住むのは、嫌だ!」と言われてしまったら、どうしよう……?


 頭に熱が篭ると発作が起きやすくなるという先生は、夏場は必ず短髪を維持し、午睡や夜の就寝時には氷枕を愛用される。洗面所で頭に冷水を かけている姿も、よく見かける。
 猛暑の中、散歩に出かける時は、必ず帽子を被り、保冷剤を包んだタオルを頸にかけて歩く。
 保冷剤を頸にかけるのは、僕も実践している。真夏の日中は、本当に熱中症で死にかねないからである。

 僕が、午後も和室の掃除に勤しんでいると、暑さ対策も含む身支度を整えた先生が「出かけてくる」と告げに来た。
「どうか、お気をつけください……今日も暑いので」
「君こそ、エアコンを つけなよ」
掃除のために窓を開けていたのだけれど……確かに、そろそろ限界だ。

 掃除を切り上げ、エアコンが効いている2階に上がる。
 カップに注いだ野菜ジュースを飲みながら、しばらく涼む。


 夕方。布団を取り込んで1階に戻してから、台所に立って夕食の調理をしていたら、先生が帰ってきた。保冷剤を冷蔵庫に戻すためか、まっすぐ台所に向かってくる。
 しかし……その足取りと顔つきが、出かける前に見た先生とは、明らかに違う。
「おかえりなさい」
「おぅ」
今、表出しているのは……激怒すると恐ろしい、あの【彼】に違いない。
「今日の飯は、何だ?」
カツオの生姜焼きと、野菜炒めと……味噌汁です」
冷蔵庫に保冷剤をしまった後、フライパンの中身を覗きに来る。
「随分と、少なくないか?」
「僕と先生の、2人だけですから……」
「あの小僧は、どうした?」
「倉本くんですか?……今はもう、ここを出て、新しいルームメイトと暮らしていますよ」
「また、男と住んでいるのか……?」
「僕は、そこまで知りません」
【彼】も、表出するたびに暴れているわけではない。今のように、平然と会話が出来る時もある。
 とはいえ……やはり、会うたびに、少なからず緊張する。

 【彼】は「水浴びをしてくる」と言って、1階に下りていった。

 なかなか会えない【彼】にも、おそらく「名前」がある。しかし、僕は哲朗さんから「先生が いかなる状態に陥ろうとも、一貫して【先生】と お呼びするように」と、きつく言われている。交代人格の名を呼び分け、接し方を著しく変えることは、僕らと先生の双方にとって「良くない結果」を もたらすという。
 哲朗さん曰く「素人による【精神分析の真似事】は、本人にとってはストレスにしかならない」「下手な【分析】を、すればするほど……人格の数が無限に増えて、いずれ生命を脅かす」のだというけれど……。
 僕は、それらの事柄について、深く掘り下げる気は無い。僕にとって、吉岡先生は あくまでも【雇用主】である。恩義もある。興味本位で まじまじと観察したり、疾患に関する不躾な質問をしたりすることが、許される間柄ではない。幼く見える時があったとしても「子ども扱い」は しない。
 僕は無知な子どもではないし、先生は『見せ物』や『実験動物』ではない。
 成人としての、当たり前の礼節をもって接するのみである。


 長い水浴びを終えて戻ってきた先生は、出かける前と同じ……本来の、心優しき吉岡先生(言うなれば、主たる人格)に戻っていた。「外出の途中から、記憶が無い」「気が付くと風呂場に居た」と笑いながら、ご自分が頸に当てていた保冷剤をどうしたか、冷凍室を開けて確認していた。
 僕は、それについて何も言わない。
「先生、お腹 空いてますか?」
「空いてるよ。……もう、そんな時間か」
僕が開栓して半分くらい飲んでいた野菜ジュースを、ペットボトルのまま、飲み干してしまわれた。
「晩ごはんに、しましょうか」
「そうだねぇ」

 いつもより少し早いけれど配膳をして、先生が選んだ録画番組を鑑賞しながらの食事が始まる。
「やっぱり……君が焼いた魚は、一段と美味いなぁ」
「恐れ入ります」

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【22.待ち人 来たる】
https://note.com/mokkei4486/n/nfd08b5b26ec4

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