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小説 「僕と彼らの裏話」 22

22.待ち人 来たる

 僕は、普段なら近寄ろうとも思わない路線の電車に乗っていた。5泊分の着替えを詰め込んだ四角いリュックを網棚に上げ、両手に吊り革を持つ。
 空港に、彼女を迎えに行くのである。

 正直、混雑した電車内で、もうパニック寸前だ。脚が小さく震えているのが、自分でも分かる。……胸の奥が、モヤモヤする。
 しかし、彼女を安全に宿まで送り届けるのが、僕の『任務』だ。逃げ帰るわけにはいかない。……遅れるわけにもいかない。

 空港に辿り着き、指定された出口の近くで、自動ドアが開いて彼女が出てくるまで、ベンチに座って ひたすら待った。先生から教わった呼吸法を試しながら、必死に呼吸を整える。
 背筋を伸ばし、へその下、腹の奥底に、力を込める。その姿勢で、声は出さずに頭の中で「101、102、103……」と、数を数えていく。101〜104で、息を吸う。105〜108は、止める。109〜115で、息を吐ききる。これを、繰り返す。(再び101から数え直すと、分かりやすい。)
 1ではなく101から始めるのは、そのほうが、恐怖や緊張で心拍数が上がっている状態でも、より正確な「秒数」を計りやすいからだという。
 要するに、4秒 吸う → 4秒 止める → 8秒かけて 吐ききる……というサイクルを繰り返すことが出来るなら、唱えるのは数ではなく詩でも良いし、小説やお経の一節でも良い。

 数を数えることに飽きてきた頃、いよいよ、待ち侘びた時が来た。
「坂元ー!」
人目を憚らず、彼女は大きく手を振ってくれる。膝の上に、黒いボストンバッグを乗せている。
 僕は、何も言わずに手を振り返し、立ち上がる。足元に置いていたリュックを背負う。
 歩み寄っていって、まずは彼女と握手をする。
「久しぶり」
「……すごく、顔赤いよ?大丈夫?」
「外、暑いからね……」
「あぁ、やっぱり こっちは凄いんだね……」
人混みで、緊張しているせいもあるだろう。

 今日から2人で滞在する宿に向かうべく、歩きだす。
 僕は、特に依頼されない限り、彼女の車椅子を押したり、荷物を預かったりはしない。
 僕の最大の任務は、入念な下調べと、的確な道案内だ。日本全国の公共の場にあるエレベーターやバリアフリートイレに関する情報が載っているアプリを、ずっと開きっぱなしにしてある。それを頼りに、ほとんど『歩きスマホ』だ。


 電車に乗り降りするたびに、駅員に助けてもらうことになる。
 僕らが電車を待つ間、ホームと車両の入り口の間に渡してスロープにする板を持った駅員が、すぐ近くで控えている。
 第三者を前に、私的な会話ははばかられる。
 
 目的の駅に着いたら、そこでも同じ板を持った駅員が待ち構えている。どの車両の何番目のドアか……情報は、先に伝わっているのだ。
 労力を割いてくれる彼らには申し訳ないけれど、この方法だと、気まぐれで途中下車するとか、気分が悪くなって一旦降りるとか……そういう、自由が無い。
 彼女が「外出は面倒くさい」と言うのが、よく解る。


 滞在先のホテルに着く頃には、僕は すっかり くたびれていた。
 バリアフリー仕様の客室を予約したけれど、入り口は、ごく普通の外開きドアである。2人部屋だから「介助者同伴」が前提なのか、昔は車椅子対応の部屋ではなかったのか……。
 何にせよ、僕が開ける。
 彼女は部屋に入るなり、ベッドの上にボストンバックを放り投げてから、「思ったより、広い!」と はしゃぎながら、一人で客室内を『探検』し始めた。
 僕は、入るなり靴を脱いで、荷物を床に放り出し、ベッドに倒れ込む。
「坂元!手洗い・うがい、しなきゃ!」
それは解っている。しかし……動けない。
 洗面所を「先、使うよー!」という彼女の声に、だらしなく「はーい」と返すので精一杯である。
 用事を済ませた彼女が、戻ってくる。
「夏バテ?」
「んー……」
どうにか起き上がって、ふらふらと洗面所に行き、手洗い・うがいでは飽き足らず、冷水で顔や頸を洗い、冷やす。
 ホテル側が用意した清潔なタオルを1本、拝借する。

 宮ちゃんの家でもしたように、ベッドに寝転がり、タオルで目元を覆い隠す。
 また涙が止まらなくなりそうだし、今は とにかく、全ての光が厭わしい。
 無様にも、既に震えが来ている。
「だ、大丈夫!?」
「ごめん……今、また……」
いつもの「あれ」だ。パニック発作だ。
「……人混み、緊張した?」
「これでも……かなり、頑張ったんだ……」
負け惜しみを口にすると同時に、涙が溢れ出す。もう、どうしようもない。
 鎮まるまで、待つしかない状態である。
「……ありがとう」
彼女は、僕の汗臭いはずの頭を撫でてくれた。
「落ち着いたら、先にシャワー浴びなよ。私のほうが、時間かかると思うから……」
「宮ちゃんが先で良いよ……。上がってくるまで、伸びてそうだから……」
「そんなに?」

 結局、彼女が先に一人で入浴した。それが可能な宿を探すのに、一苦労したのだ。堪能してもらいたい。
 震えが治まったら起き上がり、彼女がシャワーを浴びている音を聞きながら、チェックインの時に受付で貰った水を ゆっくり飲んで、呼吸を整える。
 今更「情けない」などとは、思わない。電車の中や空港で こうならなかったのだから、上出来だ。
 こういう時に自分を責めたら、ますます体調が悪化する。しばらく、寝込むわけにはいかない日々が続くのだから……意識的に労って、褒めてやらなければならない。




 翌日は、いよいよメインイベント「モデルルームの見学」である。昨日とは また違う路線の電車に乗って、大きな港の近くにある大規模モデルルームに赴く。僕らが目的の駅に着く頃には、電車内は ほとんど「貸切り」に近い状態となった。(他の客は、ほとんど皆、そこに着くまでに降りてしまった。)
 彼女が最も こだわるのは、浴室の設計である。「自宅の風呂」なのだから、自分が単独で入れる設計でなければ、許せないのだ。
 おそらくは高齢者向けに量産されている「介助者同伴」を前提とした設計の浴室は、比較的種類があるけれど、彼女はそれが嫌なのである。誰かに「入れてもらう」のではなく、一人で入りたいのである。
 水気の無いモデルルームの一角で、服を着たまま義足だけは外し、この時のために持参した短パンに履き替えてから、浴室内の床に降りる。入念に、洗い場のスノコや、浴槽の使い勝手を吟味する。僕も、靴を脱いで付き合う。
 バインダーを持った、パンツスーツ姿の女性スタッフが、所々 助言をくれる。
 温泉施設にある浴槽のような、縁が低くて、その分、底が深めになっているタイプが「良さそう」ということになった。浅いところも、ちゃんとある。

 台所は、基本的には僕の『縄張り』となる予定である。とはいえ、彼女でも使える仕様にしておかないと、僕が寝込んだ時、困る羽目になる。
 台所と洗面所に関しては「今の家と同じようなやつ!」という、基準がある。それほど迷わない。


 気が済むまで設備の見本を見た後、銀行の奥によくあるような窓口に案内され、具体的な話を煮詰めていく。
 どうやら、既存のバリアフリー住宅(マンションの一室)を購入し、浴室部分だけをリフォームすれば、快適に暮らせそうだ。とはいえ……数千万円の買い物だ。浴室のリフォーム分だけで、100万円を超える。
 金額に面食らう僕をよそに、彼女は至って涼しい顔をしている。
 やがて、住宅ローンや減税、名義人の話に議題が移る。そこでの彼女の一言に、僕は鳥肌が立った。
「一括で、お願いします」
(払えるのか!!?3500万を!?)
僕は、彼女の具体的な貯金額など知らない。
 しかし、彼女は淡々と、現在の住まいの解約に関する話や、予算に関する話を煮詰めていく。ここまで来ると、僕は本当に何も言えない。
 新居の名義人は僕に決まったけれど、出資者は彼女である。(本当に、一括で払える人だった。)

 それまでの、自分の【常識】から、あまりにも かけ離れていて、なんだか頭がふわふわする。


 見学を終えた帰り道。駅のホームで、僕はベンチに座り、彼女がすぐ横に車椅子を停める。もちろんブレーキはかけてある。
 すぐ近くに、あの板を持った駅員が控えている。彼に聴こえてしまわないように小さな声で、僕は率直な感想を述べた。
「宮ちゃん……やっぱり『大金持ち』なんだね……」
「使う暇が無かったからね」
本人は、あっけらかんとしている。
「それにしたって……」
彼女が、僕の膝に手を置く。
「そこ、比べちゃ駄目だよ。……保険会社から何千万も貰うような事なんて、起こらないに越したことはないんだから……」
(あぁ……そういうことか……)
以前、哲朗さんも似たようなことを言っていた。彼は「数億円」と言っていたけれど……。
「疲れた?」
「昨日ほどじゃないよ。……今日は、楽しかった」
「良かった」


 夜は、彼女の希望でお好み焼きを食べに行き、2人とも「豚玉」を注文した。鉄板の上でじゅうじゅう鳴っているそれを、僕は格子状に切る。彼女は、ピザやケーキと同じように放射状に切る。
「明日、お会いするけど……吉岡先生は、絶対に豚肉を食べないんだ」
「嫌いなの?」
「いや……。僕らが『猿を食わない』のと、同じような感覚らしいよ。先生的には、豚は『食べるもの』じゃないんだ」
それは先生公認の、おぞましい【真実】を隠すための「建前」である。毎回、本当の理由を話していたら……心的外傷のアウティングにしかならない。
「ふーん……。まぁ、蛋白質なんて、豚以外の何かで摂ればいいもんね」
「うん」
 切った お好み焼きの、一部を皿に移したはいいけれど、熱くて食べられない。
「……稔はさぁ、何か苦手な食べ物ある?」
「えっ……何だろう。……唐辛子かな」
「マジか」
「うん。あんまし辛いの食うと、腹壊すから……」
そんな事より、今、初めて彼女に「稔」と呼んでもらえた気がする。
 とはいえ、何ら、おかしなことではない。彼女も、いずれは「坂元」姓になる。それは、2人で話し合って決めてあるのだ。
 動揺は、見せない。
 僕だって、いずれは彼女を「千秋」と呼び続けることになるのだから。

 しかし……なんとなく、それを始めるのは「今ではない」気がする。


次のエピソード
【23.念願は叶うも】
https://note.com/mokkei4486/n/n39c16c8b989f

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