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小説 「僕と先生の話」 42

42.太陽

 彼が本当に溺れたり、血を吐いたりしてしまうようなことは無かったけれど、あれ以来、日に日に体調が悪化していくのが、僕から見ても明らかだった。
 彼は、徐々に帰宅する時間が早くなり、僕が退勤するまでに帰ってくるようになった。また、先生の前でも、自分を「クズ」や「鼻くそ」と言って卑下するようになった。そのたびに、先生は「私は、そうは思わない」と言って彼の長所をいくつも挙げたり、あるいは逆に、本人が卑下する点について「私は、そんな君が好きだよ」と肯定してみたりしたけれど、一向に気持ちは晴れないらしく、いよいよ笑顔が無くなり、ついに新しい仕事も休職することになった。勤務先で、目眩とは違う理由でも動けなくなってきたのだという。
 頭がぼんやりして思考が纏まらず、製図や書類作成のミスが増え、すっかり自信を喪失してしまったらしい。
 会社側から「大怪我をする前に休め」と言い渡されたのだという。

 僕は、先生から「彼を毎日太陽の下に連れ出してやってくれ」と指示を受けた。体内時計の調整や運動不足解消のためにも、屋外で陽に当たるのは重要なことなのだけれど、彼は相変わらず高頻度で目眩がして動けなくなってしまうので、一人で外出させるわけにはいかないのだ。(僕が休みの日は、先生が連れ出す。)行き先は近所の公園だったり、あの動物園だったり、スーパーだったりと、日によって様々である。
 体力維持のための運動が主目的であるから、可能な限り車は使わない。休み休み歩いて、時には陽の当たるベンチ等に座って、ぼんやりと風景や動物を眺めたり、文字の少ない雑誌や絵本をパラパラめくったりする時間を作る。(僕の私物であるレシピ本がお気に入りらしい。)
 もちろん、天気や体調によっては、家の中だけで過ごす日もあるけれど、それでも、窓の側に座って背中に陽光を当てる時間は、必ず作る。
 先生ご自身は太陽の力を借りて健康を取り戻したから、彼にもそれを実践させているのだ。再び『寝たきり』となってもおかしくない彼が、誰かと一緒なら出歩ける状態を維持しているのは、やはりその方法に効果があるからなのだろう。

 その日も、彼は散歩の途中で「自分は死ぬべきだ」とか「もう何の役にも立たない」というネガティブな言葉を連ね始めた。
 その感覚が痛いほど分かる僕は、彼の正直な気持ちは否定せずに、それでも「僕は松尾さんが死んでしまったら悲しい」と伝えた。
 その後は、努めて彼とは無関係の話をした。僕の経験上、希死念慮や罪業感に囚われている人は【自分】に対する意識(自我備給)が過剰になっているのだ。どこで何が起きても「自分への天罰だ」と感じたり、働けない自分を責める気持ちが頭から離れなかったり、普段は忘れているような『過去に経験した 嫌なこと』が、芋づる式に思い起こされて止まらなかったり……人によって詳細は異なるけれど、とにかく【自分】のことで頭が一杯になってしまうのだ。その苦しみを少しでも緩和するために、僕は、動植物のことや、食材や料理に関すること、自分の地元である北海道の話などをした。
 僕は、おそらく先生の影響で、屋外に居るとつい動植物についてあれこれ語ってしまうのだけれど、彼は、あまり興味がないようだ。「俺は専門バカなんで……」と、力無く言った。

 彼が疲れてきたのが判ったから、ベンチに座って休憩することにした。(僕は、運転中以外は必ず彼の左側に座るよう心がけている。)
 彼は、公園内で親子連れが遊んでいる姿を眺めながら「俺はもう あの会社には戻れない」と言い始めた。理由として「俺はもう使い物にならないし、みんな、俺が精神病で休んでいることを、笑っているに違いない」と、被害妄想的なことを語った。
「そんな、ひどい会社ではありませんよ」
「坂元さんは、あそこで働いたことないでしょ……?」
「僕は、先生から、あの会社の話をたくさん聴きました。それを信じています」
彼は、応えなかった。黙って、遊具やその周辺を走り回る子ども達を眺めている。
「俺は、ずっと……前の会社で、病気持ちの人が、馬鹿にされながら働いてるのを見てきて……自分も、いちいち顔なんか憶えてないくらい、何人も『ポンコツ』呼ばわりして、虐めてきました。…………自分も、初めの頃は『ポンコツ』とか『野良犬』呼ばわりされてました」
「それは……非常に良くない『伝統』というか『風習』の、影響を受けていた……というだけでしょう? 貴方はもう、そこを辞めたわけだし……今 休んでいる会社で、そんな事は、していなかったでしょう?」
「してないっすよ、もちろん……」
「大事なのは【今】ですよ!」
この台詞は、工場長の受け売りである。「今の貴方は、以前とは違うのだから、過去のことは気にしなくていい」と、伝えたかった。
「今の俺は……誰よりも『使えない』人間です」
(そう捉えてしまうか……!)
「人間は、本来『使われる』ために生きているのではありません。奴隷や家畜じゃないんです」
彼は、また黙り込んでしまった。地面を歩き回る鳩の群れを眺めているようだ。
「俺は、前の会社で、散々酷いことをしてきたから……今の会社の人達も、それを知ってて『ざまぁ見ろ』と思ってる気がします」
「そんなこと、いちいち調べたりしないと思いますよ」
「同業者なんすから、筒抜けでしょ……前んとこの社長は、俺が裏切ったこと、根に持ってると思うし……」
僕は、退職を【裏切り】と表現する悪習を、出来ることなら無くしたい。
「いくら何でも、退職者の悪評をバラ撒くほど、経営者は暇じゃないでしょう。それに、現場で大怪我して辞めた人を『裏切り者』だなんて、おかしいです……!」
彼は、何も言わない。

 やがて、彼は相変わらず鳩の群れに視線を向けたまま、言葉を地面に向かって吐き捨てるように、力無く呟いた。
「俺、これ……自分で潰しました」
その一文が何を指しているのか、瞬時には解らなかった。
「自分から、機械に突っ込みました。……俺、休職中だったのに『せっかく来たんだから、一発打ってけ!』って言われて、その時、社長と他の連中が大爆笑してたのが、すごく頭に来て…………『こんなとこ、二度と戻るか!』と思ったし『今このタイミングで俺が大怪我すれば、こいつは失脚する』と思って……」
(自傷、なのか……!!)
彼は、自らの意志で、己の腕を「潰した」のか。二度と繋ぎ合わせることが出来ないように……。二度と、あの社長の期待には応えないと示すために……!
「それでも……あの会社は潰れないし、社長は相変わらず社長だし……機械は最新型に変わって、何も知らない外国の人がたくさん入ってきて、現場は普通に回ってるし……」
残酷なようにも思えるけれど、僕の経験上【企業】とは、基本的にそういうものである。重傷者どころか、死者が出たとしても、人材は日々入れ替わり、業務は淡々と続いていく。
「俺の怪我のことで、先生は、ずっと自分を責めてるみたいで……。先生がキレたのと、俺が社長にキレたことは、関係ないのに……!!」
彼は頭を抱え、背中を丸めた。
 僕の目には、先生が「今も自分を責めている」ようには見えないけれど、彼の視点からは、違う一面が見えているのかもしれない。
「俺……すげぇ馬鹿な事しました….。俺も、部長がしたみたいに『退職代行』使えば良かった……!!」
彼の後悔は、あまりにも【正論】で、僕は何も言ってやれない。
「先生や坂元さんに、迷惑かけてばかりで……哲朗さんまで巻き込んで、馬鹿みたいなこと訊いたし……。俺は、もう……!!」
 何を言おうとしているのか解ったような気がしてしまって、僕は思わず彼の肩をがっしりと掴んだ。彼は、はっとして顔を上げた。
「貴方が死んでしまうよりは、良いです」
僕は、彼の左肩を掴んだまま、語りかけた。
「身体の一部を、失くしてしまったとしても……貴方はまだ生きていて、貴方の存在が、先生の力になっています。貴方と暮らし始めて、先生は『弟が増えたみたいで、毎日が楽しい』と、言ってました。……過去の出来事について、泣きながら話すようなことも、貴方が来てからは無くなりました。張り切って、たくさん本を書いているし、貴方の話ばかりしています」
僕は、手を離した。
「先生も、貴方のことを『好きだ』と、何度も言っていたでしょう?」
「……言ってました」
「貴方が居なくなってしまったら、先生はきっと凄く悲しみます。……僕も、凄く悲しいです」
彼は、何も言わずに傾聴してくれている。
「それに……薄情なことを言うようですが、働くための義手うでは、これから何度でも造ることが出来ます。今どきのテクノロジーは凄いです。……しかし、それでも【生命】だけは、造り直すことが出来ません」
解りきったことを、改めて語る。
 彼は、小さな声で「そうですね」と応えた。
「金、貯めないと……」
「そうですね」
希死念慮ではなく『労働意欲』が垣間見えて、僕は少し安堵した。
「はい」
僕は、彼にレシピ本を手渡した。
「今日の晩ごはん、何が食べたいですか?」
「え……」
彼は、レシピ本を左脚に乗せて、パラパラめくり始めた。
 随分と時間をかけて選んだ。
「俺、これがいいっす……」
彼が指さしたのは、油淋鶏の写真である。
「じゃあ、材料を買って帰りましょう!」
食べ物の写真を見て「食べたい」と思えるなら、とりあえず安心だ。(しかも揚げ物である。)


 帰宅後、先生は「おかえり!」と朗らかに迎えてくれた後「何を買ってきたんだい?」と、彼に訊いた。彼は、黙って買い物袋を先生に手渡して答えた。先生は、中身を覗いて「おっ!」と言うと、僕のほうを見て「すごく良い鶏じゃないか。高かったろ?」と言った。
「彼の希望です」
「良い選択だねぇ」
先生が彼に言う。
「美味そうだったんで……」
「晩ごはんが楽しみだね」
先生は、やけに上機嫌である。彼は、何も言わずに目を泳がせている。
「先生、何か嬉しいことでもあったんですか?」
僕がそう尋ねると、先生は「今日は、すごく良い絵が描けた!」と答えた。
「それは良かったです」

 夕食が出来るまでの間、彼はまた こたつに入って寝ていた。
 食事が始まる時には ちゃんと起きて、自分で選んだ肉をしっかりと食べたけれど、食後は、すぐにまた寝転がってしまった。
「疲れたかい?」
先生がそう訊いても、彼は応えなかった。
 彼は、自分の心境や考えについて流暢に話せる時と、黙り込んでしまって話せない時とで、落差が激しい。気分や体調に波がある。
「どうした?」
 僕が洗い物を終えて戻ると、彼は寝転がったまま、ぽろぽろと涙を零していた。先生は、それに気付いて「どうした?」と訊いたのだ。しかし、彼はやはり応えない。
 先生が居るほうに顔が向くよう寝返りを打って、そのまま静かに涙を流している。
 先生は、こたつから抜け出して、彼の肩や背中をさすってやる。「熱は無いよな?」と言って、首や額にも触れる。
「やっぱり、疲れたんだろ……今日は早く寝たほうがいい」
「僕、布団敷いてきましょうか?」
「……お願いしてもいいかい?」
「はい」

 僕は一人で1階に降りて、和室に布団を敷いた。
 彼は横になる頻度が高いけれど、先生は、朝に彼を起こしたら、すぐに布団を畳んでしまう。日中に、こたつ等で眠るのは許しているけれど、和室で布団に入るのは「睡眠時のみ」とさせている。四六時中、布団の中に居るような生活は「させない」としている。「寝床で考え事をする習慣」が身につくと夜間に布団に入っても眠れなくなってしまうと、ご自身の経験を通じて知っているからである。彼を再び『寝たきり』にしないための対策である。彼も、先生の意図を理解し、その方針に従っている。

 僕が2階に戻ると、彼は起き上がっていて、先生に注いでもらったのであろうお茶か何かを飲んでいた。
 先生は、先ほど話していた「すごく良い絵」を3階から持ってきていて、彼に見せていた。商用の原稿ではなく、純然たる趣味で描いたもののようで、普段の写実的な画風とはまるで違う、平面的かつ抽象的な絵だった。オーストラリアの先住民が描く伝統的な絵に似ている気がした。黒いシルエットで描かれた人や、ごくシンプルな形にディフォルメされた動物が数匹 描かれていて、太陽の光を表す赤や黄色が目立つ。
「描いていて、すごく楽しかった」
先生は少年のような笑顔で話す。
 僕は、ふと炊飯器の中身が気になって、台所での作業に入った。翌朝の分が、おそらく足りない。炊かなければならない。
「君は、趣味で絵を描いたりするかい?」
「俺、絵心無いんで……」
「あんなに製図が巧いのに?」
「製図は、パソコンが綺麗にしてくれるんで……」
2人の会話は、台所まで聴こえている。
「……俺、これ部屋に飾りたいっす」
「そんな落書きでいいのかい?」
「これ、たぶん100年後とかに数億円になります」
「……ならないと思うな」
先生がクスクス笑っているのが判る。僕も、ちょっと笑いそうになった。
「サイン入れてください」
「しょうがないなぁ……裏面に入れてやるよ。この世界観に『文字』は合わない」
先生は、そう言うなり3階にその絵を持って上がり、サインを入れて戻ってきた。
 僕も、改めて絵を見せてもらった。
「……宝物にします」
先生から絵を受け取った松尾くんが、数週間ぶりに笑った気がする。
 明日は、一緒に額縁を買いに行こう。


次のエピソード(最終話)
【43.邂逅と希望】
https://note.com/mokkei4486/n/n35b2af721684

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