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小説 「僕と彼らの裏話」 17

17.技を磨く

 その日の夕食は、僕と先生と倉本くんの3人で食べた。先生は、素早く食べ終わると、すぐにスポーツドリンクと保冷剤を持って1階に下りた。
 悠介さんは、普段よりずっと早い16時過ぎに、勤務先の社長の兄が運転する車に乗せられて帰ってきて、多量に嘔吐した後、ずっと和室で安静にしている。
 帰ってきた時は汚れた作業着姿のままで、一人では立てないほど目を回し、更には鼻血を出していた。血が噴き出したほうの鼻の穴にはティッシュで栓がしてあったけれど、現場で「大量出血」したとかで、作業着の胸や腹の部分は血まみれだった。
 牛か何かの出産に立ち会ってきたのかと思うほどの血の量で、彼一人の血であるなら非常に まずいと思った。

 社長の兄は「耳鼻科に運ぶか、連れて帰るかで迷った」と話し、先生は「家で、しばらく様子を見たい」と応えた。

 その時は、まだ倉本くんが帰ってきていなかったので、僕と先生が彼を介抱し、体を拭いて着替えさせた。彼は まるで泥酔しているかのような状態で、ほとんど会話が成立しなかった。そのまま眠り込んで、鼻血か吐瀉物で窒息するのではないかとヒヤヒヤした。
 先生は、しばらく彼を寝かせずに座らせ、最低でも鼻血が完全に止まるまではと、ずっと付き添っていた。(僕は、途中で「夕食の準備に戻ってくれ」と指示を受けた。)

 以前の勤務先で「部長の代役」を務めていた頃の彼を思い出した。(社内で【鬼神きしん】と畏れられた製造部長の代役で、彼の内耳は壊れた。)
 先生は「私のせいで長々と休んだ分を取り返そうとして、無茶をしたようだ」と話していた。(彼の給与は『歩合制』だ。)


 
 僕は退勤前に一度、一人で彼に挨拶をしに行った。
 彼は、布団の上で横向きに寝て、タオルに包んだ保冷剤で額を冷やしていた。目も隠れている。それでも、泣いているのは判る。
「あの……悠介さん。僕、帰ります」
 僕の声を聴いて、彼は保冷剤を一旦外した。額と、目鼻の周りが、かなり広い範囲で腫れている。ほとんど目が開かない。
 鼻の穴は もう詰め物が外されているけれど、鼻水で詰まっているのか、呼吸は苦しそうだ。
「すいません……俺、もう……動けなくて……」
「気にしないでください」
「……俺……当分、休みます……」
「お大事にしてください」
意識がはっきりしていて、話が出来るなら、ひとまず安心だ。


 その後の2日間は藤森さんの出勤が続き、僕は休みだった。
 休み明け、悠介さんはまだ和室で寝起きしていた。顔の腫れは引き、2階まで行って普段通りの食事が出来るようになっていたけれど、すっかり元気を無くしていた。ため息ばかりついて、一人で何かを考え込んでいる姿を、よく見るようになった。
 発作的な目眩も相変わらずらしく、彼は早退してきて以来、自宅から一歩も出ていないという。(受診も拒んでいるそうだ。)
 それでも、毎日リビングの外にあるベランダで風や陽に当たる時間は、必ず作ることにしているらしい。そのベランダには「喫煙用の椅子」があり、彼は一日に数回、そこで煙草を吸いながら、ぼんやりと空や植木鉢を眺めている。火を消した後も、しばらく戻ってこない。
 先生は、そういう時は決まって「そっとしておいてやってくれ」と言い、ご自身も外に居る時の彼には近寄らなかった。

 早退した日から一週間ほど経ったあたりから、彼は、僕や倉本くんが見ている前でも涙を流すようになった。そのたびに「すいません」とか「ごめんな」と繰り返し、自身の不甲斐なさを詫びた。それは、心身の状態が【躁】ではなく【うつ】に転じてきた兆候だ。
 体調の悪化に歯止めがかからず、やがて、彼は再び休職することとなった。

 ある日、先生は「社長と話してくる」と言い、一人で彼の勤務先に出かけていった。(先生は、彼の勤務先の【大株主】である。)
 翌日になって僕が出勤すると、先生は前夜に決まったことを話してくれた。
 社長および新専務との協議の末、会社に新しい機械を導入することが決まったという。また、それにより、彼が復職した後の身体的な負担が大幅に軽減できるそうだ。
 僕はそれを【極めて柔軟な対応】であり、また彼にとっては【朗報】だと思った。
 しかし、当の彼は「解雇する」とでも告げられたかのように動揺し、落胆した。
 新しく導入される機械というのは『3Dプリンター』で、彼は「それがあれば、職人は要らない」として、ひどく落ち込んでしまった。先生は「全てが3Dプリンターに置き換わるわけではないし、それだって人が操作するのだから、おまえの仕事が失くなるわけではない」「3Dでの製図を学ぶ、良い機会だ」と、何度も熱心に説いたけれど、彼は納得しなかった。「片手でスイッチを押せば事足りる機械」の導入によって、造る品目に合わせて買い足し、改良を重ねてきた義手や、工業科高校時代から磨き上げてきた【手技】の大半が必要なくなってしまうとして、ただならぬ衝撃を受け、また自己を全否定されたかのように感じたらしく、落胆と共に怒りを露わにした。
 彼や他の従業員の「負担を軽減したい」という先生や役員達の意向は、今の彼には受け入れ難いものであるようだ。


 彼の体調は日に日に悪化し、先生は、彼に何かを諭すのをやめた。
 彼は倉本くんの前では暴れてしまわないようにと気をつけてはいるけれど、血が出るほど頭を掻くとか、煙草の本数が増えるとか、じわじわと【躁転】の兆しが見え始めた。

 そして、彼は ある時 唐突に「よっさんに会ってくる!」と宣言し、荷づくりをして旅立ってしまった。
 先生は「好きなだけ学んでくればいいさ」と言って、悠然と見送った。


 悠介さんが出かけていった後、僕が事務仕事をしていたら、倉本くんが先生の側まで行って「よっさん」とは誰なのか訊いた。
 先生は、いつものように煙草を巻きながら答えた。(相変わらず、先生はオリジナルの手巻き煙草の”研究”を楽しんでおられる。)
「私の弟だよ。岩手で、ロボット開発の仕事をしてるんだ。……悠介は、彼のところに、技術を学びに行ったんだ」
「いつ帰ってきますか?」
「うーむ。それは……まだ、分からないな。本人が納得いくまで、学びたいだろうから」
「……僕、ここに居てもいいですか?」
「もちろん」
 彼は、先生から煙草の作り方を学んでいるかのように、ずっと先生の側に正座して、手元を見ている。
「……君は、吸わないだろ?」
「吸わない、です……」
「吸わないに越したことはないよ、こんな物……」
それでも、倉本くんは『見学』をやめない。
「僕も……僕も、何かを作りたいのです」
「ほぅ。ものづくりに興味があるかい?」
「僕……【内職】をしてみたいです」
「なるほど……。だが、煙草はお薦めしないな。どうしよう……何を作ってもらおうか」
僕は、倉本くんが、ここまで長く誰かと流暢な会話を続けている姿を初めて見た。
「僕が……悠さんと同じ会社で働くのは、厳しいですか?」
「んー?…………一日3時間、週2日くらいなら、出来そうな気がするよ」
「そ、そ……」
「君が『見学に行きたい』と言うなら、私は いつでも連れて行くよ」
「わ、わ、わ……」
 吃って言葉が出てこない彼に、先生は至って涼しい顔で風呂掃除を頼んだ。
 彼は「はい!」と大きな声で返事をして、すぐに1階に降りていった。

 僕は事務仕事が終わり、台所に戻ろうとした。
「彼、いよいよ再就職ですか?」
「いや……明日には、忘れている気がするなぁ」
「えっ……!?」
「彼も、私と似たところがあるんだ。過去の、特定の時期に関する記憶だけが、やけに鮮明で……それより新しいことは、なかなか憶えられないようだね」
先生は、20代の頃の悍ましい記憶に、今も苦しめられている。その反面、30代以降の「楽しい思い出」とか「自著の内容」というのは、関連する人物に会うか、物的な記録を見返さなければ思い出せないという。新しく買った家電やスマートフォンの使い方を覚えるのにも、毎回かなり苦戦される。受容できず、あるいは思い出せず、パニックになることも しばしばである。
「彼にも【フラッシュバック】があるし……【解離症状】がある」
「僕は、彼の それには出くわしたことが無い気がします……」
「彼が荒れてしまうのは大抵……夜間か、朝だね。君達が居るような時間帯は、概ね安定しているよ」
「そうでしたか……」
「彼は……当分は、この家の中で、君か藤森ちゃんの手伝いをするのが良いだろうね」
料理か洗濯を、手伝ってもらおうか……。
 先生は、見ていて気持ちが良いほどのスピードで、淡々と煙草を巻いて、保管用のケースにしまっていく。
「ところで……私、悠介は、数ヵ月は戻ってこない気がしているんだ」
彼は、日程などは一切決めずに、いきなり飛び出してしまったのである。
「……温泉にでも入って、ゆっくり休んでいただきたいです」
「そうだね……。お勉強も大事だけれども、まずは羽を伸ばさないとねぇ」
 その後、先生は出来たての煙草を一本だけ持ってベランダに出て、満足げに吸っていた。


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 僕も休職中には「よっさん」に会いに行った。彼は相変わらず、無口で、猛々しくて、ただひたすら【仕事】のためだけに生きていた。彼は、個性豊かな仲間達と共に「俺達の技術で、日本の食料自給率を上げる!!」と息巻いて、担い手不足と高齢化が深刻な農業分野で活用できるロボットの開発に勤しんでいる。人工知能を搭載した農業機械が可能な限り【全自動】に近い形で動き回れるよう改良しつつ、作業するヒトの身体的な負担を軽くする「ロボットスーツ」の改良を続けている。
 彼の仲間達は、僕にロボット開発の醍醐味や可能性を大いに語ってくれたけれど、農学や工学に疎い僕には半分も理解できなかった。

 彼らが働く研究所にも、確かに3Dプリンターは在った。
 明らかな【門外漢】で、技を盗めるほどの知識が無い僕は、単なる見学者として歓迎され、設備の一部と試作品を見せてもらえた。(撮影は禁止だった。)

 悠介さんは、受け入れ難いはずのものでも……考えを改めて、扱い方を学ぶことにしたのか。
 素晴らしい心意気だ。
 僕には……出来そうもない。


次のエピソード
【18.先生の「愛弟子」】
https://note.com/mokkei4486/n/nf40abbe37d7b

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