小説 「吉岡奇譚」 33
33.発露
倉本くんが一人で寝るようになってから、数日が経過した。
今日は藤森ちゃんが休みの日である。しかし、とても天気が良いので、私は衝動的に和室の布団を2階に持って上がり、ベランダに干した。彼が手伝ってくれた。
何度も洗濯機を回し、布団のカバーや、シーツも洗濯する。
洗った冬物を干している間に、押入れから春夏用の寝具を引っ張り出す。
2人して布団カバーの中に潜り込んで、紐を結ぶ。
作業が一段落したら、彼は、畳の上で胡座をかいて休んでいる私の側に、改まった様子で正座した。
「先生……僕を、弟子にしてください」
「私は、弟子なんて取らないよ?」
「僕も、吉岡先生のように……なりたい、のです」
「作家になりたいのかい?」
「…………僕も、先生のように、自分らしく、堂々と……生きられるように、なりたいのです」
「自分らしく、ねぇ……」
私は確かに「クリエイティブな仕事」をしているが、特に【個性】を主張しているつもりは無い。自身と家族の快適性を最優先にしながら、出来る事だけをして、のらりくらりと、生きているだけだ。それを、100%自分の稼ぎで実現 出来ているのなら、さぞかし「かっこいい」のだろうとは思うが……残念ながら、違う。
彼は、緊張した面持ちで、まっすぐに私を見ながら、訊いた。
「あの……あの…………間違っていたら、すごく失礼なのですが……先生は……『FtM』で『ゲイ』の方、では、ないですか?」
セクシャリティーに関する直接的な会話など、十数年ぶりだろうか。
彼に悪意があるようには思わないので、私は正直に答える。
「違うよ。……あえて言うなら、私は【ノンバイナリー ジェンダー】で【全性愛者】だね。自分を『女性』とも『男性』とも思わないし……相手の性に関係なく、恋愛感情を抱くよ。『この人と、一緒に暮らしたい!』と思う時に……相手の性別やセクシャリティーなんて、まったく気にしない。
今は、たまたま『夫』が居るけれども……偶然だね。彼が男性だから、選んだわけではないよ」
「そう、でしたか……。失礼しました……」
「いえいえ」
互いに礼をする。
彼は、ずっと真顔である。むしろ、思い詰めたような顔をしている。
「……ひょっとして、君は『ゲイ』なのかな?」
「そうです……」
「なるほど」
彼は、おそらく、それを打ち明けたいがために、私にセクシャリティーを訊いたのだろう。ならば「セクハラ」には当たるまい。
若く繊細な彼は、すごく緊張しているのだろう。震えている。
「僕が……僕が、ずっと、悠さんと同じ部屋で寝ていたこと……不快に思われますか?」
「まさか。あの部屋割りを決めたのは、私だよ?」
「あ、あ……ありがとう、ございます……」
彼は、土下座でもするように、床に手を着いて頭を下げる。正式な【座礼】を、知らないのだろう。些か不恰好である。
「頭を下げるような事かい?」
彼は、頭を上げたが、ずっと震えている。
「僕は、僕は……」
私の顔を見ることはなく、頭で考えている文章を、すごく迷いながら、それでも必死に口に出しているように見受けられる。
「僕は……ずっと、ゲ、ゲイであることを理由に……会社や、町で、差別を受けて……殺されそうに、なったことも、あって……」
呼吸が、荒くなっていく。私は「大丈夫だよ」と言ってやる代わりに、隣に移動して、彼の肩に手を添えた。
「僕は、もう……自分が、男性を、好きだと、口に出したら……殺されて、しまうような、気がしていて……」
彼の口からは「殺される」という言葉が、やけに よく出てくる。
「そんなことで、殺すような奴こそ【罪人】だよ。君が同性を好きでも……断じて罪ではないし、何も『おかしく』は ない」
震えが止まらない彼の、顔は蒼白い。
「僕は、その……まだ、それを……医者にも……誰にも、言えなくて……」
「……差別のことをかい?」
「そ、そうです…………僕は、過労で、おかしくなったことに、なっていて……父は、それを、『情けない』と……全否定で…………でも、でも、僕は……ほ、ほ……ほん……!」
きっと、彼は「本当は」と、続けたいのだろう。しかし、呼吸の乱れから、言葉を口にすることが出来ず、やがて、嘔吐しそうなほど、激しく咳き込む。
私は、念のためバケツを手渡してから、彼の背中をさすってやるしか出来ない。
「無理はしなくていい……まずは落ち着いて……」
彼は、バケツの中に、少しだけ吐いた。私は、ただ背中をさするのみである。
「前にも言ったけれども……私は、君の生命を奪ったりはしないよ。家から追い出そうとも思わない。……君の身体が良くなるまで、ご実家に帰すつもりは無い」
「僕は……!あの……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
バケツの中に涙をぼろぼろ零しながら、震えだす。
「謝ることじゃない……大丈夫だよ。私は気にしない……」
しばらく背中をさすってやり、彼の呼吸が落ち着いてきたら、私は淡々と布団を敷き、彼が いつでも寝られるようにする。
彼は、自分でバケツを持ってトイレに行き、きちんと後始末をした。
綺麗に洗ったバケツを手に、和室に戻ってきた。
「あ、あの……このことは、悠さんには……」
「私からは、言わないよ」
「すみません……」
「少し、寝たほうがいい。……顔色が良くないから」
「はい……」
彼を独りにしてやり、私は、2階の台所で食品の在庫を確認しながら、昼食について考えていた。そんな自分を「坂元くんのようだ」と思った。
何を作るか見当をつけたら、12時頃までは洗濯物の様子を見ながら、のんびりと休んだ。
こちらが呼ぶまでもなく、彼が上がってきた。先ほどよりは、血色は良い。
「……大丈夫かい?」
「水分を、ください……」
「好きなだけ飲むといい」
自分で冷蔵庫から茶を出して飲み始めた彼に、昼食のことを訊いた。彼は「自分で粥を温めます」と答えた。
岩くん用の黒い丼鉢に、レトルト粥を3袋分も入れた。加熱してから、そこに「お吸い物の素」を2袋分、混ぜ込む。
「わぁ。良い匂いがするね……!」
「お恥ずかしい、です……」
「とんでもない」
彼は、この家に来てから、初めて自分の力で食事を用意した。れっきとした「進歩」だ。
私とて、インスタント味噌汁と、レンジ加熱のみで完成する焼き鮭と、白い米だけである。恥ずかしい飯である。
質素な昼食を摂り、午後について話す。
「散歩にでも行く?」
「え……」
「まだ、お腹が不安かい?」
「は、はい……」
「なら、やめよう」
胡座をかいて食事をしていた彼は、おずおずと正座した。
「あの……先生……」
「何だい?」
「今朝……本当に、すみませんでした。失礼なことを訊いて……」
「私は気にしていないよ。君は誠実だもの」
彼は、悲痛な面持ちで、目を閉じる。
「……もし、まだまだ打ち明けたいことがあって……それで、君が楽になれるなら……何でも言ってくれよ。私なんぞで良ければ」
彼は、目を開けたが、ずっと黙っている。
「もちろん、強要はしないよ」
項垂れて、力無く「はい……」と言った。
彼は、2人分の食器を洗ってくれた。
私は、3階に上がる気には なれず、リモコンを操作して、録画した番組の整理を始めた。
食器を洗い終えた彼が、食事をしたのと同じ座布団に戻ってきた。
「先生は……『金剛 たくみ』という俳優を、ご存知ですか?」
「存在くらいは、知ってるよ。……確か、彼もゲイだよね?」
「そうです……」
ゲイで、日本でも同性婚を可能にすべく頑張っている若手俳優……ということくらいしか、私は知らない。彼の経歴や代表作などには、あまり興味がない。
「……僕は、学生の頃、彼と暮らしていました」
「なんと……!」
私は、番組の整理をやめた。
「彼がテレビに出て、堂々とカミングアウトをして、活動して……それによって、僕もゲイであることが、会社や大学の人間に、知られてしまって……」
「なるほど……。ある種の『アウティング』みたいなものだねぇ」
彼と一緒に暮らしていた倉本くんが「恋人ではなく、友人だ」と言い張ることは可能だが……関係性を偽らなければ差別を受けるというのは、おかしな話である。
「彼に、罪は無いのですが……田舎町では『芸能人の元彼』は、すごく目立ってしまって……」
「そりゃあ、そうなるよね……」
女優の元彼でも、目立つだろう。
「でも……なかなか辞められない、ブラック企業で……転職も、妨害されて……それなのに、職場では『ホモ野郎』だからと、ずっと嫌がらせを受けて……仕事も、かなり押しつけられて……」
(辛かったろう……)
若き日の自分が、脳裏をよぎる。
「当時の僕は……【退職代行】というものの、存在を知らなくて……もう『辞めるには、仕事が出来ない身体にするしかない』と思って…………自分で、農薬を飲みました」
それを聴いた私は、全身から血の気が引くような気がした。
「よく……死ななかったねぇ!?」
「自分でも……そう思います」
彼の表情から、心境は読み取れない。呆れているような、がっかりしているような……ネガティブな感情なのは解るが、飲んだことに対する後悔なのか、死に損なったことに対する落胆か……測りかねる。
彼の聴覚や味覚に障害があること、胃が極端に弱いことは……その時の後遺症なのかもしれない。
私は、思わず彼の手を握った。
「……よく、頑張った」
目の前の彼だけではなく、かつての自分にも向けて言うようなつもりで、言葉をかけた。
「よくぞ、生きて……ここに来た」
私は、彼の背中を叩いたり、両肩を抱いたり、思いつくままに触れながら、誉め称えた。
「よく帰ってきた……よく生きた。……よく、話してくれた」
20年前の私には、それを言ってくれる人は、居なかった。インターネットを通じて岩くんと巡り逢うまで、私に理解者は一人も居なかった。親は終始「私だけ」を非難し、10代だった弟に『悪影響』であるとして、接触を許さなかった。(親は、差別や過重労働の現場となった企業側を一切責めなかった。『きちんと退職金を出す、まともな会社』という見解を崩さなかった。私が口にした「被害」を、一切 信じなかった。)
今の彼には、全てを話せそうな相手というのは、おそらく私しか居ないだろう。
私の対応次第では……彼を、死なせてしまいかねない。
私に されるがままにしている彼は、何も言わないが……次第に、肩の力が抜けていく。ぽろぽろと涙を零し、頭や頸を撫でながら、俯いたり、首を捻ったりする。
やがて、彼のほうから、私に握手を求めてきた。私は、すぐに応じた。
「ありがとうございます、先生……」
鼻を垂らして咽び泣いている彼の肩に、空いている腕を回す。
「よく頑張った……」
二度目になるが、他に、言ってやれることはなかった。
「僕は……生きていても、いいですか?」
「もちろん」
私がそう答えると、彼は安心したように、大きく息をついた。
握っていた手を解き、私はティッシュの箱を持ってきて彼に渡した後、冷蔵庫から茶の入ったピッチャーを持ってきて、彼と自分のカップに注いだ。
その後、干していた布団の様子を見にベランダに出る。
裏返したり、向きを調整したりする作業を終えたら、室内に戻る。
「すごく良い天気だから、私一人ででも、散歩に行きたいな」
「……僕も、行きます」
「お腹は、大丈夫?」
「大丈夫そうです」
「良かった!」
いつもの公園に彼を連れて行き、満開の時期を過ぎた葉桜を眺めながら、長距離走用のトラックを、のんびり歩く。
「気持ち良いなぁ……今日こそ動物園に行けば良かった」
「今日は、休園日ですよ」
「そうだっけ!?」
私は、日付の感覚を失いやすい。毎日、せめて「曜日」だけは把握しようと努めてはいるが……在宅ワークだと、それも危うくなってくる。(夫や藤森ちゃんも『不定休』で、曜日の感覚の基準となるものは、ゴミ出しくらいしかない。)
公園からの帰りに、スーパーに立ち寄る。そのつもりで、空のリュックを背負ってきた。
カゴを持って店内を歩きつつも、今の彼に「食べたい物」や「好きな食べ物」を訊くのは、憚られる。
「倉本くん、牛乳は飲める?」
「はい。少しなら……」
「ちょっと多めに買おうかな」
牛乳パックを2本、カゴに入れる。
私は、そこで初めて、彼に坂元くんのことを話した。その坂元くんも お腹が弱くて「吐いてばかりいる日に、それでも栄養を摂る方法」について詳しいのだと教えた。
坂元くんは、食欲が無い時にこそ牛乳を たくさん飲むのだという。粥もスープも用意できないほどに身体が弱っている時は、牛乳と蜂蜜で栄養を取って、生命を繋ぐのだという。(彼は、私と同様に、乳糖で腹を下したりはしない。)
「彼も、藤森ちゃんの『先輩』にあたる、うちのハウスキーパーなんだよ。だけど……もう、3ヵ月くらいは休んでいるのかな?いつ戻ってくるのか……まだ分からない」
「病気、ですか……?」
「そうだよ。彼は……うつ病だねぇ。真面目すぎるんだ」
倉本くんは、黙って傾聴している。
「戻ってきたら、消化に良い料理を たくさん教えてもらうといいよ」
「はい……」
その夜。夫が帰ってきた時、倉本くんは私よりも先に1階に降りて、夫を出迎えた。
私が後から降りていくと、彼が夫のリュックを脱衣所に運んでいた。
夫は、久しぶりに玄関で ひっくり返っている。頭や耳周りを掻きながら、うんうん唸っている。……よくあることである。
私は、側まで行って「おかえり」と言うのみである。
「ただいまー……」
「随分と、お疲れだね」
「今日、暑かったからさぁ……」
「確かに」
私は、彼が散らかした靴を整えてから、側に腰を降ろす。
「駄目だぁ……今日『世界が回ってる』……」
彼は、右腕で目元を隠しながら、だらしなく仰向けになる。疲労困憊のようである。
「張り切りすぎたね。……フライス盤だろ?」
「そう……」
彼は、その日に使用した工作機械の種類によって、体調が大きく変わる。回転部分の数や方向によっては、内耳がダメージを受けるようで、このように立てなくなる日も しばしばである。
帰ってきた直後の様子を見れば、その日に「何を いちばん使ってきたか」は、大体わかる。
「……お疲れ様」
リュックを手に脱衣所から出てきた倉本くんが、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「え、え……?悠さん……!?」
「疲れて、横になっているだけだよ。倒れたわけじゃない」
私がそう説明しても、倉本くんは、床に両膝を着いて、心配そうに夫の顔を見ている。
「ごめんなぁ、和真……。俺も、もう『歳』だからさぁ……」
夫は、床に寝転がったまま、どうにか彼に笑いかける。その眼は、左右に揺れっぱなしだ。
「彼は今、目が回っているから……治まるまで、そっとしておくしかないんだ。……いつものことだから、大丈夫だよ。すぐに治まる」
「わ、わかりました……」
そう答えたら、彼はリュックを私が座っている近くに置いたまま、和室に引っ込んだ。
残された私は、夫にささやかな報告をした。
「……今日の夕飯は、彼と一緒に作ったんだ」
「おぉ!……あいつも、食えた?」
「いや……まだ、彼は『調理だけ』だね。……でも、包丁の扱いは上手かったよ。自炊していた時期もあるらしいし」
「マジか……『追い越された』気がする……」
「比べてどうするんだよ」
彼は、仰向けになったまま、笑って誤魔化す。
夫の眼振が治まる気配が無く、私は、和室の戸がきちんと閉まっているのを確認してから、彼に、小声で告げた。
「倉本くんはね……死ぬほど辛かった仕事を、辞めるために……農薬を飲んだそうなんだ」
「えっ……!? 毒……盛られたんじゃねえのか?……自分で!?」
「自分で……。自殺企図というよりは『その仕事が出来ない身体にする』のが、目的だったようだけれども」
「マジか……」
夫は、硬く目を閉じた。
「味が判らないのとか、吐いてばかりいるのは……それの影響かもしれない」
「そうか……」
目を開けた夫は、やっと起き上がった。
「でも……そこまでするほど辛かったのに……あいつ、まだ『続けてる』ような気でいる時あるだろ?…………尋常じゃねえな。【強制収容所】みてえだ」
「彼も、真面目なんだ」
夫は、しばらく何も言わなかった。深く息をしながら、いつになく神妙な面持ちで、何か考え込んでいるようだった。
「……ごめんよ。疲れている時に……」
「いや……良いんだ。大事なことだ……」
そろそろ、汗で体が冷えてきているはずだ。早く風呂に入ってもらいたいところだが……。
「あいつは、それを……諒ちゃんにだけは『言える』んだよ。だから……これからも聴いてやってほしい」
「もちろん。……私も、そのつもりでいる」
「頼むぜ、先生……」
彼は、やっと「風呂に入る」と言って立ち上がり、歩きだした。
(私は、そんな大それた人間じゃない……)
私は、玄関に腰を降ろしたまま、脱衣所に消えていく夫を見送り、その後も、しばらく1階の廊下を眺めていた。
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【34.愛弟子と蜂蜜】
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