見出し画像

小説 「僕と先生の話」 39

39.老師の理念

 いよいよ松尾くんがアパートを引き払い、善治の承諾を得て、新しい【和室の主】となった。とはいえ、彼が仕事に出かけている間に、やはり今まで通り岩下さんが来客用の布団を敷いて寝るのである。(家庭内の状況が落ち着いてきたようで、彼が来訪する頻度は激減した。)
 僕は、松尾くんが出勤時に持参する弁当用のおかずも冷凍室に常時ストックしておくようにと先生から指示を受け、また「仕事量が増えたから」ということで時給が上がった。(朝、それを解凍して弁当箱に詰めるのは松尾くんらしい。)

 ある日、出勤するなり、先生にUSBメモリを手渡された。同居人の彼が、本来なら持出禁止の会社用USBを誤って持ち帰り、更には持って行くのを忘れたとのことで、僕は、それを「届けてやってほしい」と依頼された。
 会社関係者である先生が持参したほうが波風が立たないような気がしたけれど、先生は「別件で外出する」そうで、指定された時間までに届けることが出来ないのだという。
 僕は「わかりました」とだけ言い、タイムカードを押したら、すぐに車で出発した。

 僕が事務所まで無事にUSBメモリを届けると、受け取りに出てきた彼は泣きそうな声で「ありがとうございます!」と叫び、中のファイルを必要としていた『先代の孫』に「消えてたらクビだからな!」と脅されていた。(冗談だとは思うけれど、ミスをした松尾くんの表情は暗い。)
 そのやりとりを側で聞いていた工場長は、学校の出席簿のような硬く厚みのあるファイルで、背後から『先代の孫』の頭を叩いた。
「痛っ!?」
「おまえに人事権は無い」
テレビで芸人が見せるネタより、ずっと優しい叩き方である。「体罰」と呼ぶほどのものではない。
 くだらない冗談に同調せず、きちんと窘める姿に、僕はむしろ惹かれていた。
 工場長は、ファイルを机の上に置くと、僕のほうへ歩いてきた。
「わざわざ、ありがとうな。……昼飯は食ったか?」
「まだです」
「一緒にどうだ?」
 今日の昼、先生は一人で外食すると聴いている。僕が、急いで帰る理由はない。
 ご一緒させていただくことにした。

 昼休みのうちに、工場長行きつけの定食屋に連れて行ってもらえることになった。
 引退を目前に控えた72歳の工場長は、今は「見廻り」と「助言」が主な仕事らしく、業務の大半は現役世代に任せており、日中の忙しい時間帯でも、一人でフラッと出かけることはよくあるそうだ。その代わり、夕方以降に出勤する人材の安全に責任を持つため、夜は遅くまで残るのだという。夜間に出勤するのは、学校や他の仕事を終えてから来る人達で、製造業には詳しくない人も多いため、彼らのいかなる質問にも答えられるベテランの存在が、欠かせないのだという。
 本来の「昼休み」は1時間だけれど、彼だけは2〜3時間戻らないことも多々あるという。

 店まで歩きながら、工場長は松尾くんや先生の話をした。
「おかげさんで、良いのが入ってきてくれたよ。あいつ、耳は悪いが……頭が切れるし、うちで一番パソコンが出来る。手先は器用だし、覚えが早い。ただ……随分と、大人しい性格みたいだな。技も知識もあるのに、それを他の連中に言わん。勿体ない……」
「彼、家でもあまり話しませんよ」
「あぁ、そうか。あの先生の家に、間借りしてるんだったな。……大丈夫か?先生のほうは……喧嘩というか、八つ当たりというか……」
やはり、工場長も先生の病態は よくご存知である。
「今のところ、特にトラブルは起きてませんよ」
「そうか。まぁ、気をつけてやってくれよ……難しい奴だからな」
工場長は、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、信号待ちをしながら、車道を行き交う車を眺めている。
「今でこそ『株主』で『先生』だけどよ……あいつは、うちに居た子の中で、いちばん重症だった気がするなぁ。俺以外の、ほとんど誰とも話が出来なかったし、随分と神経質で……だからこそ、細かい仕事は得意だったが、機械やラジオが『うるさい!』ってだけでパニックになったり、他の連中がふざけ合ってたら『みんなが自分のことを馬鹿にしてる』って泣いたりしてなぁ。……昼間の仕事が、相当苦しかったみたいだ。
 そっちを辞めてからも、随分と長い間『ずっと誰かに見張られてる』とか『世界中の人が自分の死を望んでる』とか『私は人間じゃない』とか、被害妄想みたいなのが凄くてなぁ……」
「今は、すごくお元気ですよ」
工場長は、信号が変わって歩き出した後も、ずっと先生について話す。
「そうみたいだな。
 あいつは……うちを辞めてからのほうが元気だ。しょっちゅう家に来る、マネージャーさんみたいなのが居るんだろ?その人が付いてからだな、良くなったのは……」
「彼は、編集者ですよ」
「何だっていいんだよ、肩書きなんか。
 俺からすれば、マネージャー兼カウンセラーか看護師だよ。あの人のやってる事は」
言い得て妙だと思った。
「俺は……『使ってやる』ことしか出来なかった。他の奴と同じように……ただ『出来ることをさせた』だけだ。『病人を限界まで こき使った』と批判されても、反論は出来ねえ。見る人によっちゃ【虐待】だと思っただろう」
工場長はそう言って謙遜するけれど、当時の先生の状態と、現在の先生の認識について少しでも知っている身としては、当時の工場長の対応は『偉業』と呼ぶに相応しいと、手放しで言える。
「あいつは、俺のことを【恩師】だとか『先進的』だとか言うけどな……何も、特別な事はしてねえよ。工員なんて、どんな状態で入ってきても、みんな、毎日クタクタになるまで働いて、歳を取っていくんだ。みんな、どっかしらガタが来るよ。うちみたいな小さな会社は特に、せっかくの貴重な人材を『無い物ねだり』で潰しちゃならねえ。確かな技の持ち主に、一日でも長く働いてもらうためには、それぞれの人材に、その時々の『出来ることをさせる』しかねえんだよ。一朝一夕で【一人前】になるわけでもねえし……誰にだって得手・不得手がある。雇用枠なんか関係ねえんだ」
至ってシンプルな理念であるはずなのだけれど、それを貫き通せる企業は、おそらく世界的にも稀少である。
「俺は……誰が来たって、そうする」
先生が、今も尚この工場長を慕うのは、個人的な恩義だけではなく、その寛大かつ合理的な経営方針に賛同しているからに他ならないだろう。
 近年になって「ダイバーシティー」とか「サスティナビリティー」と呼ばれ、必要性が叫ばれていることが、彼の会社では数十年前から行われてきたのである。

 目指していた店に着いた。中に入り、2人で並んでカウンター席に座る。
 飲食店に入ると、もはや「今、何を食べたいか」よりも「今週、何を作るか」を考えるためにメニューを眺めている自分が居る。
 食事中、僕は改めて工場長から「夜間だけでもバイトしに来ないか」と勧誘を受けた。しかし、僕は「無理に仕事を増やして、先生や松尾くんの身に何かあった時、迅速に動けないようでは困る」として、丁重にお断りした。
 確かに、この工場長は素晴らしいリーダーだとは思うけれど、今は自身の本分を大切にしたい。


 先生の家に戻ると、役所と銀行に行ってきたのだという先生が、浮かない顔をしていた。
「ああいう所に行くと、ひどく気疲れする……」
「お疲れ様でした。ゆっくり休んでください」
「そうするよ……」
先生は、おそらくは午睡をするため、3階に上がっていった。

 夕食の時間になっても、先生は起きてこなかった。寝室まで起こしに行くなど、それこそ「虎穴の最深部で主を起こす」ような自殺行為だから、僕は先生のスマートフォンに電話をかけた。いかにも眠そうな、少年のような声で「わかった。降りる」と応答があった。
 僕が配膳をしていると、先生が降りてきて こたつに入り、あの お気に入りのアニメを再生した。もう、何度観たか分からない。(三部構成となる予定の原作小説が第二部までしか出版されておらず、原作者は何年もファンを待たせているそうで、先生は「第三部がアニメ化されるまで、一と二を何度でも観るんだ」と言っていた。)
 食事が始まってからも、先生は、アニメを観ながら黙々と食べている。いつになく背中を丸め、身体が小さく見える。いつもなら「何度観ても、素晴らしい」と言いながら、笑って観ているアニメなのに、今日の先生は、本当に元気が無い。
 やがて、先生は箸と茶碗を手にしたまま、ふいに口を開いた。
「みんな、私のことを【嘘吐き】だと思っているんだ」
脈絡が解らないから、僕は黙っていた。
「私は【偽者】なんだ」
「先生は、本物の『作家』ですよ」
先生は、僕のほうを見ないし、ずっと暗い顔をしている。
「どれだけ学んで、懸命に働いても、私は【本物】として認められないんだ。……親でさえ、私を信じない。目の前の、実際の私を無視して、ずっとテレビを信じている。
 私が、どこでどれだけ酷い目に遭っても、あの親は、いつも加害者の前でニコニコして……私ばかりを責める。あの女も、研究所の意地汚い連中とグルなんだ。あいつらにとって、私の苦痛や死は『娯楽』で、私の死骸は『収入源』なんだ……!!」
どうも、様子がおかしい。
「あの女は、私が『生きるために逃げる』ことを許さない。あの女は、何度でも、私に『死ぬまで働け』『金を寄越せ』と言うんだ。あの女には、人間の心が無い……!!」
役所か銀行で、親が関係する手続きでもしてきたのだろうか……。先生は、テレビのほうを向いたまま、おそらくは母親に関する話を、一方的に続ける。
 今、先生は『過去の忌まわしい記憶』で、頭が一杯なのだろう。危ない兆候だ。
「先生……今ここに、その人達は居ません」
僕がそう語りかけると、先生は、手に持っていた物を食卓に置き、僕のほうを向き直った。
「先生はもう、自由です」
「私には、ろくでもない血が流れているんだ。まともな人間じゃない……」
「先生は、立派な作家です。……僕は、先生の絵本が大好きです」
「私は、詐欺グループの一味だった。山のように動物を殺した……まともな人間じゃない……今の私に【生命】を語る資格は無い……あの崇高な物語は、彼の意志だ。私の『教え』じゃない……」
今は どうしようもなく、ネガティブな思考が止まらないらしい。
「先生、ごはん要らないんですか?」
「……食べる。食べるよ……」
「食欲があって良かったです」
先生は、意外に しっかりと食べてくれる。

「ところで、先生。僕、今日は工場長とランチを食べてきたんですよ」
「工場長と?」
「はい。素晴らしい理念を、ご教示いただきました」
そこから、僕は工場長の『人員の雇用と人材育成における基本理念』に関する話の概要と、自分なりの解釈を、先生に語った。
「今のおまえには、何が出来る?」
「えっ……?」
「……昔、よく言われた。工場長に」
言われた瞬間は、先生が僕に問いかけたのかと思った。
「『大事なのは【今】だ!』……とも、言われたな。私は、いつも過去を引きずってばかりだから……」
「僕も、似たようなものです」
「そうなのかい?」
「僕が、最近になって、小説なんて書き始めたのは……ずっと昔に好きだったことを、先生に影響されて、また始めたくなったからなんです。……僕は、たいそう未練がましい人間です。大いに過去を引きずります」
「そんな風には見えないけれども……」
「……真の意味で『割り切る』ことが出来たら、心療内科の世話にはなりません」
「今も、通っているのかい?」
「はい。残念ながら……」
「そうかい」
 先生は、何事も無かったかのようにご自分の食事を完食し、食器を台所まで運んだ。


 その日、僕が退勤する時間になっても、彼は帰ってこなかった。


次のエピソード
【40.新しい家族】
https://note.com/mokkei4486/n/n5800e76b902e

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?