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小説 「僕と先生の話」 4

4. 僕の仕事

 資料室での、先生による解説が終わると、僕の主たる仕事場、2階の台所に案内された。
 特筆すべきことはない、一般的な台所のように思われた。強いて言えば、調味料の類が、すごく少ない。先生が「ほとんど料理をしない」というのが、状況から伝わってくる。
 先生自身も、料理どころか食事そのものに、あまり関心が無いように感じられた。「創作活動が出来るだけの栄養さえ、摂れればいいんだ」という。
 自宅に医学書まで置いている人が、自分の健康には、あまり関心がないというのが、忙しさを象徴しているように思われた。
 どれだけ知的で温厚な人でも、プロとして【期日】に追われ始めたら、変わってしまうものだ。僕は、今の勤務先で、それを日々痛感している。

「可能なら、昼と夜の2食を頼みたい。朝くらいは、自分で何とかするよ。君の負担が大きくなってしまうだろうから」
「君のペースで、好きな時間に来て、好きなように作ってくれればいい。君が食べたいもので構わない。買い出しに行くタイミングも自由だよ。来客は、まず無いから」
 自分と先生、2人分の食事を作って、この家で一緒に食べることが想定されているようだ。
「先生は、苦手なものありますか?」
「そうだなぁ……。激辛料理と、甘い物が苦手だな。あと、脂っこい物は駄目だ。胃が受け付けない」
「じゃあ、揚げ物は苦手ですか?唐揚げとか、豚カツとか……」
「唐揚げは、少量なら喜んで食べるよ。だが、豚カツは駄目だ。私は、豚肉だけは絶対に食べないと決めているんだ」
 宗教上の理由というやつだろうか?
「じゃあ、ハムとかソーセージも駄目ですよね?」
「そうなるね」
 一気に、ハードルが上がった気がする。
「他の肉は、どうですか?」
「豚以外なら、何でも好きだよ。鹿でも、鯨でも。特に好きなのは、鶏だな」
「魚は、どうですか?」
「よく食べるよ。海産物は、基本的に何でも食べるかなぁ……特に、嫌いな物は思いつかない。今のところ」
「わかりました」
「野菜は、平気ですか?」
「平気だ。むしろ、大好きだ」
 一転して、豚にさえ気を付ければ、そんなに難しくない仕事のような気がしてきた。
「……お願いできそうかい?」
 気がつくと、僕は、先生に無断であちこちの戸棚を開け、数少ない調理器具や食器を眺めていた。それなりの値段がする、名の知れたメーカーの良質な製品が並んでいる。数こそ少ないけれど、悪くないセンスだ。
 僕は、この台所が気に入った。
「食材を買う費用について、教えていただけますか?」
「もちろん!」

 先生は、嬉々としてリビングに案内してくれた。
 食事をしたり、テレビを見ながら寛いだりするための空間から、少し離れた所に、小さめのノートパソコンが置かれた事務机と、シンプルな木製の丸椅子が置いてあった。
 このパソコンが、歴代ハウスキーパー達が金銭管理に使ってきたものだという。今日は見学に備えてあらかじめ電源を入れてあったそうだ。業務と無関係な「遊び」に使わせないため、インターネットには繋いでいないという。(長く座らせないために、椅子はあえて硬いものにしているらしい。)
 買い物をしたら、そのパソコンの中にあるExcelファイルに、店舗名と金額を入力するのが決まりらしい。使用金額の合計が自動的に算出されるようになっている。
 そして、事務机の引き出しに、小さな金庫と買い出し用の財布がしまってあるのを、先生が見せてくれた。月の初めに、1ヵ月分の食費として5万円が貸し与えられ、この金庫に残金とレシートを全て入れておく決まりになっているそうだ。(余った現金は、月末には返却しなければならない。逆に、使い果たして足りなくなったら補填されるが、その分は、翌月の給与から天引きされるのだという。)
 10日に一度、先生が残金とレシート、パソコン上の数値を照合し、横領にあたる使途が無いか確認しているのだという。
 過去には、貸し与えた現金そのものを持ち去られたり、個人用の日用品を買い込まれたりといった横領が、度々あったのだという。
「横領が発覚したら、解雇するよ」
「……肝に銘じておきます」
 脅しでも冗談でも何でもない、本物の通達事項なのだろう。先生は至って真面目な顔をしているし、そのまま淡々と労働条件の説明を続けた。「採用後に、正式な労働条件の通知書を渡す」と宣言された。
 先生は、絵本の執筆だけではなく、雇用主としての業務に対しても、すごく真面目に取り組まれる方なのだろう。
 信頼できる人だと感じた。


「それで……いつから出勤できるんだい?」
 当たり前の質問だ。しかし、すぐに答えることはできなかった。
「……今の会社を、いつ辞められるか、まだ判らないのです……」
「まぁ、そうだろうね」
先生は、僕がそう答えることは解っていたようだ。至極あっさりとした返事だった。
「でも、心配は要らないよ」
「え?」
「私の弟を、巧く使ってくれ」
「あの会社で、社長に口答えできるのは、専務と、あいつだけだよ」
 僕は「そうですか……」としか言えなかった。ひょっとすると、先生は専務や社長と面識があるかもしれない。
 そういえば、僕は専務という人を、よく知らない。僕が生まれる前からあの会社で働いていることと、あの会社では唯一の、社長よりも歳上の人材だということくらいしか、知らない。現場には滅多に来ない人なのだ。
 しかし、アルバイトが1人辞めるだけなのだから、社長のことを気にする必要はない気がする。誰かが辞めるなんて、日常茶飯事だろう。

「他に、何か質問はあるかい?」
「いいえ。特にありません……」
「そうかい。なら、奴を呼んでくるよ」

 先生と一緒に降りてきた善治と、2人で駅まで歩いて、電車で帰った。
 先生は、駅まで車で送ろうかと提案してくれたけれど、僕は丁重にお断りした。
 電車の中で、すぐ隣に座っている人と、お互いに黙ってLINEのやり取りをし続けるのは、なんだか新鮮だった。何も知らない人が見たら、僕らは「連れ」には見えないだろう。
 先生のことや、仕事のことは何も話さず、ただ「この後、一緒に晩飯を食って帰るか」という話をして、結局、降りる駅が違うことを理由に、解散になった。
 明日からは、また工場での仕事だ。


次のエピソード
【5. 夢】
https://note.com/mokkei4486/n/na7f96d61c489


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