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春とわかれ


強風が続いた日の次の日だった。あったかい日差しがカーテンから刺す朝、変に目が覚めた私はいつもならしばらく未読スルーをする母からのLINE「起きてる?」に返信をした。「起きてる」。先程までの二度寝で見ていた夢を反芻しつつ、夢の中に出てきた猫の姿を思い出す。おっきな、茶色と白の猫と、グレーの猫。うちでは飼っていたことがない猫だが、昨日読んだエッセイブログの影響だろうか。
実家で長年猫を飼っている私は、昨今の猫ブームも相まって、猫を飼っている人のSNSをよくチェックするようになっていた。

母からは、その後すぐに電話がかかってきて、私は咄嗟に「親戚の誰かが亡くなったのかな」と思った。先日帰宅した時も、親戚の死を知らされたからだった。季節の変わり目、寒暖差、新型コロナウィルス、こんな時期は、人がたくさん亡くなる。
「ねこが死にました」
母からの電話は私の予想を裏切るものだった。死んだのは親戚ではなく、14年実家で飼っていた猫だった。


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実家の猫が死んだ。14歳だった。
28歳の私は、人生の半分をこの猫と過ごしていることになる。
喪失感は、日に日に大きくなる。

そうこうしているうちに、春がきた。
わたしは春の匂いが嫌いだ、心が落ち着かなくなるからだ。

心がふるふる震えていて、噛み合わせが悪くなっている感覚がある、綱渡りをしているようでもあり、崩れる間際のジェンガのようでもある。あといっこ、なにか、なにかがトンと触れた瞬間、崩れ落ちてしまいそうな感覚を抱えて下腹に力を入れて私は電車に乗っている。

この時期わたしはよく化粧ができなくなる。厳密には、化粧をしている途中で動けなくなる。次に何をもったらいいのかわからなくなり、鏡の中の自分と目が合い、動作が止まる。学生の頃は、そのまま泣き出すこともよくあった。
どっとくる倦怠感。倦怠感、という表現が的確かもわからないが、とにかく、自分の体が重たい鉛で作られていて、関節は錆びている。そんな感覚になる。そしてその上頭だけは普段よりもはっきりと回転し、ことばが怒涛のように溢れてくる。ふ、と気づくと10分以上経過し、遅刻が決まる。そんな状態が、春、わたしにはいつも起こる。
春が、ダメなのだ。あたたかい、何かの始まりのような季節がダメだ。わたしの心をガクガク揺さぶり10年前、この空気の中で経験したトラウマも掘り起こそうとする。そんな季節だ。

いつもならこんなときは、全てを放り投げて、実家に行き、猫を撫でる。
Twitterで変な人間たちに絡まれた時もそうだった。わたしは半目で私のアカウントに向けられた自分勝手な言葉たちを眺めながら、ストーブの前で猫を撫でていた。
猫を撫でるとあたたかい。猫には人間の世界などどうでもよい。人間の世界のちっさなコミュニティのちっさいけど鋭いどろどろとした人間の悪意。現実世界ではなくインターネットから伸びてくる悪意。それが猛烈に私の心には刺さるけれど猫には届かない。ならば、こんなに苦しむモノでもないのではないか、と、思わせてくれる。それが、猫だ。ごろごろという喉の音が心地よい。これは人のストレスを軽減する力があるという。
ストーブの熱と、猫のぬくもり、それだけの時間が、わたしを何度も掬い上げてくれた。

猫はわたしに多くを求めない。いや、求めているのかもしれない。
毎日の食事と、美味しいおやつ、たまに遊び、そして撫でること。猫がわたしに求めるのはそれが全てだ。
仕事に毎日行くことも、仕事上のパフォーマンスも、他人に対してどう振る舞うかも、猫は求めない。私の見た目など、発言など、思想など、どうでもよい。自分が撫でて欲しい時にそばにいる事、心地よいリズムで尻尾の付け根を叩く事、それが、私が猫に求められている役割だった。

こんな文章を書いていると、また心がふるえて涙が溢れる。両目から涙があふれる。
わたしは今日やっていけるだろうか。仕事でひととはなして大丈夫だろうか。と、春先は毎日思っていた。しんどい。眠りたいのか、眠れるのか?眠りがわたしを救ってくれるのか?わからない。しんどい。とも思っていた。でも時間は刻々とすぎている。

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ねこのいる生活はわたしの支えだった。ねこがいて私はしあわせだった。
どんなときもあたたかい部屋であたたかい猫をなでること。
世界を、社会を忘れ、猫だけと向き合うこと。
それがわたしにとってはかけがえのない時間だった。
いま振り返ると、コーピング行動の一環でもあったのだと思う。
わたしがストレスを受けながらもわたしとして生き続けるために、必要な時間だった。

だが、人生の半分、あって当たり前だった存在を失っても私はいきていく。
ごはんを食べるし、眠るし、活動を継続するし、人の悩みを聞くしごともする。人間社会に、人間に、かかわり続ける。


そんな私を無理やり人間のつながりから引き離してくれるのはねこだけだ。
春、ねこを失ってから、新しいねことの出会いもあった(ロスで悲しむ両親のために出雲大社でお願いしたらどこかからふらっと人懐っこいねこがやってきた)。
少し寂しさは薄れたけれど、やはり忘れられるものではない。忘れるつもりもない。

ありがとうねこ。
無愛想でビビりで面倒な性格だったけれど、私の感情をたくさん受け止めてくれてありがとう。
おしりをくっつけて傍にいてくれてありがとう。
ねこがそばにいてくれて、私は本当にしあわせでした。
ねこのいる生活は、確実に私の人生には不可欠なものだった。今後もそうだろう。たまには思い出して泣こうと思う。

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