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今の生きづらさは、かつての救いだった

悩みを抱えていてその悩みがなかなか解決されないでいるとき、なんだか生きづらいなと思うとき、「これはどうやら自分に問題がありそうだ」ということに思い至ることがあります。

思考の癖であったり、人付き合いの不器用さであったり、揺らぎやすくコントロールしづらい感情であったり。

いつもまにか自分の中に染み付いていた「よくないパターン」のようなものがあって、それが今の悩みを作り出しているのかもしれない。

そうして「問題は自分だったんだ」と気づきます。


問題が自分にあることに気づけたら、今度は自分を変えようと思います。

自分、あるいは自分の一部に、どうやら問題がある。正しくない。良くない。間違ったパターンが染み付いている。そのせいで生きづらくなったり悩みを抱えたりしている。

悩みのひとつひとつに対処していくよりも、問題の根本を変えたほうがいいと思うわけです。

しかし、ほんとうにその人に根本的な問題や染み付いたパターンがあるとしても、それを変えることはとても難しいことです。本を読んだりコーチングを受けたりして一時的に変わったように感じても、しばらくすると元に戻ってしまっていることがほとんどです。

何もない平穏な生活であれば、一年くらい調子の良い状態が続くかもしれません。でも何か対処しなければならない大きめの課題にぶつかると、たちまち以前のパターンに戻ってしまう……ということは少なくありません。

新しい思考パターン、新しい感情マネジメント、新しいコミュニケーションをどれだけ学んだとしても、脅威を感じたり危機に直面したときほど、馴染みのある古いやり方に戻ってしまうものです。

そうしてまた振り出しに戻る。

そんな自分に、ますます嫌気がさしてしまいます。



自分を変えることが難しいのは、それが「かつては最善の方法であったから」です。

今ある悩みは、いつかの救いであったのです。

たとえば、人の言うことを真面目に受け止めすぎてしまい、言われたこと全てに応えなければと思い、結果的に自分が苦しくなってしまう人がいるとします。「真面目すぎる」「他人の期待に応えようとしすぎる」ということは、その人にとって、悩みを生み出す根本的な自分の問題であるかもしれません。

でももしかしたら「相手の言うことひとつひとつをしっかり聞いて対処する」というやり方が、それなりに功を奏していた時期があったのかもしれません。いつも苛立って口うるさい親の言うことを漏らさず聞いて、言われたことを全て守ってやっていれば、叱られずに済んだのかもしれない。せっかんから逃れられたのかもしれない。この子はしっかりしてると思われれば、親の関心を少し逸らすことができたのかもしれない。言われたことさえしっかりやっていれば、ほんの少しだけ、平穏で自由な時間があったのかもしれない。

このまま真面目にやっていれば、言われたことに応えていれば、いつか愛してもらえるかもしれない。淡い期待は、過酷な子ども時代を耐えるための一筋の光であったかもしれない。

その人の「真面目すぎる」「他人の期待に応えようとしすぎる」という一面は、たしかに、今ある悩みの根源かもしれないけれど、

でも人生のある時期、幼い頃のある時代に、その一面がその人の救いとなっていたことだってあるわけです。

今ある問題は、かつての解決策であったということ。

なんだか歩きづらいなと思っていたら、晴れているのに傘をさしていた。荷物もあるのにこれじゃあ歩きづらいわけだ、とため息が出る。こんなお天気で傘をさして歩くなんて、なんてばかな私だろうと思う。他の人も、あの人歩きづらいなら傘をさすのをやめたらいいのにと思っていたに違いない。

だけど、傘をさしていたのは「雨が降っていたから」なのです。

今は雲ひとつない青空かもしれない。ずいぶん前から晴れの日続きだったかもしれない。でもその前は雨が降っていたのです。ひどい嵐で一歩進むのにも大変な、とんでもない悪天候の日々を歩いてきたのです。傘をささなければならない年月が長すぎた。傘がなければ行き倒れていた。とにかく歩くことに必死で傘を閉じることを忘れていた。ただそれだけのこと。

晴れた日に傘をさして歩きづらそうにするその人を、誰が笑えるだろう。

傘は、問題なのでもなんでもない。

いつかの救いだったのです。



たとえば人前で緊張してしまう、コミュニケーションが苦手という人がいるとします。そのせいで人付き合いや仕事に支障をきたしていることがあるとします。

でもその人はもしかしたら、気さくに話しかけるやり方を誰からも習わなかったのかもしれない。何かおかしなことを口にして笑われ、恥ずかしくなったことがあったかもしれない。

だとしたら、その人にとって「人前で緊張して話せなくなる」ということは、「下手に話して笑われ、自分を恥じる」という失敗から、その人を守ってくれていたのです。


たとえば恋人ができると不安が強くなって、相手の顔色を伺ったり、いつも連絡し合って安心させてほしいと思う人がいるとします。そのせいで関係が長続きせず、すぐ振られてしまうことに悩んでいるとします。

でもその人はもしかしたら、子どもの頃、気分にムラがある気まぐれな親と過ごしていたのかもしれません。顔色を伺って話しかけていたら、数回に一回くらいは優しく応えてもらえたかもしれません。それでいっときは安心できてもまたすぐに気分が変わることもあったから、いつもいつも機嫌を伺う癖がついてしまったのかもしれません。

だとすれば、その人にとって「相手の顔色を伺い、連絡をいつも取り合おうとする」というパターンは、急に気分が変わる相手に対処するための最善策であったわけです。


たとえば恋人がいても、仕事や趣味に没頭してしまい恋人を長く放置してしまう人がいるとします。そのせいで振られたり、不安が強くなった恋人がうっとおしくなって自分から音信不通にしてしまう人がいるとします。

その人はもしかしたら、親密な関係というものに期待したくないのかもしれません。期待して、絶望した経験があるからです。男女の情愛がもつれてドロドロの修羅場になるのを否応なく見てしまったのかもしれません。金切り声や怒鳴り声から耳を塞ぐために、おもちゃの世界に没頭していたのかもしれません。

だとしたら、その人にとって「仕事や趣味を口実に親密さから距離を置く」といういうことは、ドロドロした情愛の世界から自分を切り離す、唯一の救いであったのです。面倒なことからは距離を置いて、自分がコントロールできる世界に没頭することが、自分の心を守る防衛策だったということです。


たとえば子どもに優しくしたいのに、ついついヒステリックに叱ってしまう人がいるとします。自分のような感情的な人間にはしたくない、穏やかであたたかい家庭の中で育てたいと頭ではわかっているのに、いざ子どもの顔を見るとついキツい言葉をかけしまう。バツが悪くて、そのまま冷たく背中を向けてしまう。そういう人がいるとします。

その人はもしかしたら、その人も同じように育てられたのかもしれません。親からいつもヒステリックに叱られていたり、忙しいから後にして!と手を払いのけられていたかもしれません。自分は歓迎されていない存在なのだと強烈な寂しさを感じながら、そんな親でもやっぱり恋しくて、冷たい仕打ちを受け入れようとしてきたのかもしれません。そうして抑え続けてきた悲しみがあるのかもしれません。

だとしたら、その人にとっては、親から浴びせられるどんなにヒステリックな言葉も、どんなに冷たくキツい仕打ちも、「受け入れることが愛」だったのです。愛されない自分なのかもしれないという恐ろしい予感の中で「愛されたいならすべてを受け入れなけれなければ」と思うこと、唯一それだけが救いだったのです。



変わろう、新しい自分になろう、というとき、

私たちはまるで脱皮でもするように、古い殻を脱ぎ捨てようとします。

ときには「なんでこんなもの身につけていたんだろう」と、脱ぎ捨てたその古い殻を踏みつけにするようなこともあります。金輪際もう二度と見たくないと、忌々しく顔をそむけることもあります。その古い殻が、長く自分を悩ませてきた問題の根源であったと思うからです。

だけどその古い殻は、私たちを守ってくれた鎧だったのです。

問題なんかではありません。恥でも間違いでもない。馬鹿だったのでも愚かだったのでもありません。

今ここに存在しているこの自分は、少なくとも数十年を生き延びてきた存在です。どんな状況をも生き延びて、生かされて、奇跡的に生き残って今ここにいる。

もっと言うなら、気の遠くなるような年月を生き残ってきた遺伝子をもつ私たちです。受け継がれてきた遺伝情報には、今となってはもはや無意味なものもあるでしょう。でもかつては必要だったのです、長い長い年月のどこかで。

そのときそのときで身につけた生存戦略があり、戦い抜くために手にした武器がある。それらは間違いなく、いつかの場面で自分を救ってくれた戦略であり、武器であったのです。

ただ、もう今は必要なくなっただけ。



悩みを抱えると、自分を否定してしまいがちです。問題を抱えている自分に原因があるのだと考えがちです。自己責任、自業自得。そのように言ってくる人もいます。

だけど状況は変わるのです。

季節は巡り、日は沈んでは昇り、晴れの日も雨の日もある。

染み付いたパターンがある人は、日々刻々と変わる気まぐれな状況になんとか対処してきた人です。

手放せない武器がある人は、寂しさや孤独と戦い、過酷な状況を生き延びてきた人です。

冬のコートを脱ぐのが少し遅れたからとて、恥じることはありません。それだけ厳しい冬を耐えたのです。

ぐっと涼しくなった秋の日に半袖で出かけて風邪を引いたからとて、愚かなのではありません。あたたかくして休めばいいだけのこと。


今の生きづらさは、過去のどこかで自分を救ってくれたものです。

この自分を守り、支え、生かしてくれたもの。

それが今の生きづらさとなっているのは、状況が変わったからです。

冬が春になった。夜が朝になった。嵐が晴天になった。もう大丈夫だから、そろそろ衣替えをしましょう。重たいコートは脱ぎましょう。傘は閉じましょう。

昨日より軽やかに歩き出しましょう。

誇りある戦いを生き抜き、どんなときもこの自分を守り救い続けてくれた戦友として、ねぎらいと感謝を込めて、コートも傘も片付けてしまいましょう。



人生につまづきを感じたならそれは、自分を否定したり恥じたりするためなのではありません。変わらなければいけないのでも、もっと頑張らなければならないのでもありません。

もう今までの戦い方は必要ないと教えてくれているだけです。戦いの日々は終わったのだと、知らせてくれているだけ。

生きづらさを感じているならそれは、人生を生き延びてきた自分に「もう大丈夫だよ」と声をかけてあげる日がきたということです。