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全然連絡とってないけど、一つ年下、インドネシア人、尊敬するダニエルとの出会い@タスマニア 中編

語学学校は多国籍集団だ。日本人だけじゃないじゃん。タスマニア大学附属の語学学校に入ってすぐ、どの国の人たちも、自国で集まっているのを見ると、どこも同じ感じかという印象だった。

色んな文化に触れたかったので、韓国人、台湾人、中国人、タイ人、ブラジル人などなど、各国のコミュニティの集まりに積極的に加わった。みんな心良く迎えてくれ、ルンルン、ワクワク、だった。

1ヶ月もすると、違いに気づいた。

ここで、以前noteに投稿した「毎日大泣きした挫折を振り返って」を引用する。

「あついなー」
と言われ、
窓開けてない私が悪いんだ・・
窓開けないと思い、
窓あける場合あると思う。
①純粋にあついといった場合
②窓開けほしいと思って言った場合
③なんで窓開けてなんだよと、責めてる場合
あついと言った人の意図は
大まかに3通り考えられる。
相手の性格、
コミュニケーションスタイルを知らない場合、
どの意図で言ったのか判別が難しい。
そう言う場合は、もしかすると
窓開けない方が良いかもしれないので、
「窓開けましょうか」
と聞くのが、セオリー。

文化が違うと、同じ状況でも、解釈が変わり、行動も異なるのが、日常茶飯事である。

③の意図がゆめゆめない、外国人に対し、③と決め付け、不快感を覚えつつ、処世術で本音を仕舞い込み、後で悪口を言う、日本人コミュニティが散見された。

(私が20歳の頃、20年ちかく前の経験だが)日本にはまだ、鎖国の名残が色濃く残っていたように思う。
語弊を恐れず言うならば、江戸時代から続く、村八分の、忖度監視社会のしがらみが、残っている。

極論を言えばお茶の間会議がそうだが、不幸に向かった、労力を行使し、アリ地獄のように、お前もこいよと、周りをも不幸に巻き込む。フランス語で言うなら、ルサンチマンである。

自ら招いた不幸だと気付けないと、あれよあれよと、ホームシックになり、外国人嫌い症候群の仲間入りである。

ルサンチマンという外来語があるように、日本人に限らず、人間生来の悪癖の一つであろうが、五人組のような相互監視社会から起因する村八分が、その悪癖を増長させ、固定化させたのだろう。

僕が憧れる人たちは、東洋の哲学、あり方、生きる、道、を、空気を吸うように、自然と大切にし、実践している人たちが多い。僕は、そういう、日本に対する、誇りを、持っている。

海外生活、異文化交流を嗜めるようになる為の第一関門、それは、③と勝手に決め付けてしまっている自己に、気付けるか否か、である。

鎖国は自国の悪癖に気づく機会を奪う。異文化との触れ合いは、自身にインプリンテングされた悪しき慣習に気付く、絶好の機会である。

「思ったよりも、日本人なんだね」

当時結婚していた嫁に言ったことがある。何気なく放った一言から、半年くらい経ってか。私の意図を③だと決め付け、「日本人の何が悪いのよ!あんたがおかしいのよ」というメタ情報たっぷりに、呆れられつつ、静かに、力強く、罵られた。
何も言い返せず、傷つけて申し訳なかったという罪の意識とともに、何を言っても僕の真意は届かない、やるせなさ、と、自ら不幸に向かう嫁が、痛たまらなくなった記憶は、今も鮮明に残っている。

不幸に向かわない決意、その実践を目指す、自尊心・誇りは、培いたいものである。

色んな文化に触れる一貫で、一つ歳下、ハウスメートのダニエルが通っている教会のミサに参加したことがある。20代半ばのモニカも来ていた。モニカもダニエルと同じくクリスチャンだった。一軒家の広々とした居間で開かれた、聖書の朗読会にも加わった。

タスマニア大学理系博士課程専攻中の、可愛らしい屈託のない顔をした分厚い眼鏡をかけた白人男性が口火を切る。

「オゾン層は、常に減り続けていると思われがちだが、縮んだり伸びたり、薄くなったり、厚くなったりしているんだ」

聖書の教義と対立しがちな科学についての話が、展開されていく意外さに、固唾を飲んで聞き入る。

興奮しつつ、したたかに見渡し、最後にこう付け加えた。

「人知を超えた力、神の意志を、感じないかい?」

予想外の展開。しかし、しっくり、重量のある、言葉。心地良さそうに静かに聞き入る、ダニエルとモニカ。

「お前は卵か鶏の話をしている。鶏も卵もないんだ」

と昔働いてた会社の上司に叱責され、

「ビフォーブラックホールの領域ですか?」

という返しを思い付いてしまい、笑いを堪える私の姿が、火に油を注いだ。

「サピエンス全史」の著者、ユバル・ノア・ハラリさんによると、宗教は全てを悟っているスタンスに対し、科学は人間の無知を受け入れることから始まった。

科学の既知と未知の境界線、それは、ブラックホールとブラックホール以外の領域の境界線でもある。

我々は、ブラックホールは存在するだろうと科学的に導いたに過ぎず、ブラックホール以外の領域は存在しないと証明した訳ではない。

科学が解明したのは、極々一部に過ぎず、ドラゴンボールの精神と時の部屋のように、未知の地平が、永遠と広がっていても、何もおかしくはないのだ。

「人類の歴史とAIの未来」の著者、バイロン ・リースさんによると、数千年に渡り人類を悩ませてきた『宇宙は何でできているのか?」という問いには、一元論と二元論という、2つの有力な選択肢が用意されている。一元論は、理の全ては原子の組み合わせである、というスタンスをとる。

ここで以前noteに投稿した『ニーチェの「ツァラトゥストラ」と資本主義と教育』を引用する。

私はデータサイエンス講座の講師をしているのだが、ある受講生に、講座最終日、
「これから、どうしていけばいいか、アドバイスください」
と聞かれ、
「なんでもその場で判断して片付けていく傾向にあると思います。曖昧なものを曖昧なもののまま、維持しておく。複雑なものを複雑なまま、維持しておく。腹落ちしていないものを腹落ちしていないまま、維持しておく。しっくりくる何か掴もうと試みるも、指の隙間から摺り抜け、溢れ落ち、捉えられない。そんな居心地の悪さ、収まりの悪さと同居し、しっくりくる刹那まで、そのまんま放置しておく。その感覚を身につけて欲しいと思います」
と答えたことがある。
この感覚、知性の深掘り、本質の追求、精神の成熟に、必須だと痛感している。

ブラックホール以外の領域はないと、言い切れないように、二元論を否定できない。

原子の組み合わせ以外の領域、魂や神が存在する二元論の領域を、否定することはできない。

私自身、曖昧のものを曖昧のまま、居心地の悪さ、収まりの悪さと同居させる領域だと、思っている。

小さい頃に香港に亡命した中国本土出身の香港人、ダニエルの向かいの部屋に住んでいる29歳のセシリアが、ダニエルを、穢らわしい汚物のように扱いだしたことがある。

料理をしている人の後ろを通ると、身体が当たってもおかしくないほど、キッチンの通路は狭かった。

私の身体を執拗にさわる、と、セシリアは主張した。

通路はとにかく狭い。殆ど砂糖でできているチョコでコーティングされた、ティムタムを食べすぎて、でばったダニエルのお腹が、料理をしているセシリアの身体に接触してしまう景色は、頑なに想像できた。

韓国人のハウスメートのテウも僕も、絶対にダニエルが故意にそんな事をする奴じゃないという確信があった。

言い出したら効かない、思い込みの激しいセシリア。

後ろを通ったら当たってしまうことがあるだけ、と端的に説明する以外、何も主張する気がないダニエルからは、不幸に向かわない決意を実践する者の、静かなる精神の頑健さが、直覚できた。

こうして、冤罪が生まれるのか。
テウも僕も驚愕した。人の幸せを心底願っているダニエルに対する、何という仕打ちなのか。上の③のような悪意を行使するくらいなら、切腹も辞さない、くらい、ダニエルには、1本の幹が通っていた。

ベランダに寝っ転がり、満点の星空、流れ星だらけの星空を眺める、僕とダニエル。田舎の中の田舎のタスマニアの静寂な夜空は、神秘的で神聖な、人知を超えた、壮大な美しさがあった。あれほど美しい夜空を見たことがない。

「セシリアの件、時間が解決すると思うぞ」

「うん。そうだといいな」

「タクと会って、日本人のイメージが変わったんだ」

「どういうこと?」

「日本人って勤勉のイメージがあったのに、タクの勉強してる姿、見たことないからさ」

「お前も、してるの見たことないぞ」

見つめ合い、轟く笑い声が静寂に吸い込まれる。

「ダニエル、好きな人、いるか?」

続く

全然連絡とってないけど、一つ年下、インドネシア人、尊敬するダニエルとの出会い@タスマニア 後編

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