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私の人生哲学と、「人類の歴史とAIの未来」〜「第一の時代:言語と火」編

時代背景は変われど、
私たちはごくわずかしか変化していない
それどころか、私は真の変化は人類史の中で
たった3度しか起きなかったと考えている。
どれも技術がもたらした変化だ。
1つの技術ではなく、互いに関連する技術の集まりが、
根本的かつ恒久的に、そして生物学的にさえも、
私たちを変えた。たった3つの大きな変化。
それが全てだ。
そしてこの本は、4つ目の変化についての話だ。

『人類の歴史とAIの未来』の表紙の裏の引用。

著者のバイロン・リースは、4つの変化を、

第一の時代:言語と火
第二の時代:農業と都市
第三の時代:文字の車輪
第四の時代:ロボットとAI

と定義している。

ホモサピエンス・人間は、30〜20万年前に登場したとされる。すくなくとも、10万年前には、広範囲に火を使っていた証拠があり、『第一の時代:言語と火』に、突入している。
なぜ、火なのか?食物の加熱調理が、火の最大の功績だ。体内で行われる消化プロセスの一部を「アウトソーシング」できるようになった。今日の人間が生きるために必要とするカロリーを、生の食物だけてまかなうのは、極めて難しい。そこで得たエネルギーによって、類を見ない複雑な脳を作り上げ、短期間のうちに、チンパンジーやゴリラ の3倍のニューロンを手にした。火のお陰で獲得した大きな脳が言語をもたらし、言語を使用し思考することで、脳がより大きくなる、好循環がうまれた。

「もじゃさんは、的を射過ぎて、場が凍る」

1人居酒屋を切り盛りする気ごころしれた友の言葉だ。ブラックジョークの範疇のつもりが、言い過ぎるてしまう性癖があるらしい。

切り口は残酷だがブラックジョークにも現実が内包されている。そもそも、そんな現実から目を背け、真っ当な人生が歩めるのか?あんなんこんなん努力するくらいなら、なによりもまず今の自己・現実と向き合う努力をしようぜ。動物にもある本能的・表層的な感覚を満たす努力だけじゃなく、人生を豊かにする意義のある努力しようぜ、といった、強烈な想い・強迫観念が私を駆り立てる。

生き様、人生哲学の違いである。

人生哲学を共にしている1人居酒屋を切り盛りする友だけなら良い。人生哲学を共有していないような、他のお客さんも混じる中、何度も、何度も、居酒屋の場を凍らせてごめんなさい、である。相性の悪い常連が来るとその場を去るようにしている。

「ただ話を聞いてほしいだけで、意見なんて求めてない」

実家に帰省され半年ぶりにドトールで対面した当時の嫁、一生寄り添って生きると思っていた相手に、怒りを静かに燃えたぎらせ、あれやこれやと私の存在否定を淡々と語られたことがある。その時に、そもそもさあ、と、取って付け加えられた駄目だしである。

私より優秀な人もいれば劣った人もいる。同じだけの情報量を持つと、私の方が明らかに全体最適化が可能なケースもある。

その情報が共有されていれば、その作業やこの作業もしなかったのだが。情報が届かないほど、的外れの作業が増える。

自分のみが知り相手は知らない、そんな隙を利用する。情報をあえて共有せず、情報の非対称性を故意に作り上げ、全体の最適化ではなく自己にとって都合の良いシナリオに持っていこうとするお偉いさんと、仕事をしていた時のこと。

情報の非対称性をレバレッジにするのは、悪意ではなく癖のようなものだろう。本気で全体最適化を考え抜く気がない、真正のプロフェッショナルになろうと努める人財でなければ、情報の非対称性をレベリッジにすることは、昇進するための権利とすら思っているかもしれない。私の経験則であるが、全体の最適化を本気で目指していると、1つの情報で行動を一変させることも多い。必要な時に必要な情報が届いていないと、全体の最適化から遠のく羽目になり、不用意に失敗するリスクも高まる。

「手柄はすべてあげるし、失敗したらすべての責任を私になすりつけても構わない。とにかく情報ください」

と、心で呟きつつ、お偉いさんから情報を引き出そうと躍起になったことがある。私には感情が漏れ出てしまうという致命的な欠点がある。あなたには任せられないという感情が、態度として漏れ出ていたはずだ。当然の帰結として逆鱗に触れ、首を覚悟した経験がある。

情報の非対称性をレバレッジさせ、利己的に優位にことを進める行為は、情報を得やすいし、欲深い、お偉い方々やコンサルタントに多い印象はあるが、これは、ある種の、後出しじゃんけんである。そこには、不誠実さが内在している。反面教師として、いくら偉くなろうとも、そうならないように心がけていきたい。

元嫁の台詞に戻る。すべて、が、すべて、聞いてほしいだけなのか?全く意見を求めてないのか?

都合が悪くなったら…
意見は求めてない

またしても都合が悪くなったら…
何で真剣に向き合ってくれないの

後出しじゃんけんの構造である。大抵の人にとって、真理・本質ではなく、多数決が常識を決める。多数が後出しじゃんけんをしている領域においては、意に介さずお構いなしである。コロナ禍前からコンビニでお酒を買って歩き飲みをするのが好きだった。浮気をしている人にコンビニ歩きの説教をされたときの違和感たるや。(お金と権力を持っている何割かがしがちな)浮気など、相手を傷つける行為は、多数決の原理で問題なく、多数が認めていない、コンビニ歩き飲みは否定されるわけだ。大概がやってるので、何の疑問ももたずやり、後出しじゃんけんをしている意図もなければ、自覚もない。そういえば、元嫁のダメ出し一覧にコンビニ歩きも指定されていた。それは、元嫁のような常識人にとって常識の範疇であり、そこから逸脱する私の頭・言動・行動こそ、おかしい、のである。

私にとってそれは、不誠実である。

元嫁が悪い、私が悪い、なんて、単純な二項対立の問題ではない。元嫁が大概の人たちの常識に従う人間と見抜けなかった私の落ち度である。大概の人は、そういう、筋が通らないことをしても、何も違和感を覚えないらしい。筋ではなく常識(多数決の法則)のほうが優先されるわけだ。

生き様、人生哲学の違いである。

私の生き様と相容れないのに、私の生き様に寄り添おうと元嫁に無理させ続けた。例えば、私のせいで生気がないのだが、月に3日しか休めない多忙の時期でも、元嫁の分までたくさん家事をこなす私の存在が、ますます元嫁を追い詰めた。「元気な方がやればいいんだ」と、元気がない原因が私だとはまったく想像できず、なんとか励まそうとした言動、早く仕事が片付いたから元嫁の職場に迎えに行ったこと、やることなすこと、元嫁にとって嫌がらせであり、傷つけ続けていた事実を、家を去られて知る羽目となる。

懸命に生き続けないと、マグロのように泳ぎ続けないと酸欠になるような性癖のもと生まれた私は、懸命さは生きることと同義ともいえる。生きるために懸命な私の姿、私の存在そのものが、元嫁を傷つけ続けていたのだ。私の懸命さ・存在そのものが、私の意図とは無関係に、「なぜ頑張らないんだ」というメタ情報として元嫁を責め続けていたのだ。私といるとそもそも不幸になる構図が出来上がっていたのだ。
誰よりも幸せになって欲しいと思っていた相手を傷つけ続けていたのだ。ほんとうに、この世から、消えたくなった、人生最大の衝撃である。

今死んでも後悔しない死に様は、私の理想の生き方だが、それは、私が、私自身を否定せず、卑下せず、おごることなく、自分自身に嘘をつくことなく、自分の心の声に耳を傾け、自分の感覚を大切にし、私が、私らしく、生きる、生き様でもある。

生き様・人生哲学を曲げる気はない。

私はAI・データサイエンス講座の講師も務めている。とある受講生とのやりとりをここで記載する。

声が震えつつ、
「感謝しかないです。ありがとうございました(涙目だったので、釣られてこちらも泣きそうになる)
ほんとはもっと、いいたいことあるのに、私が傷つかないように、優しくしてくれたんじゃないですか?」
「あなたには怒らないです。何故だとおもいますか?(考え込む受講生)
私、今の会社で、若手を怒った事がほぼないです。
嫌というほど、失敗を悔いて、自分を責めて、反省してる人を、責める、怒るって、ナンセンスですよね。
幸い、そんな素敵な後輩に囲まれて仕事しているので、怒る、こともなく、むしろ、励ますことが多いです。
だから、あなたには怒らない。
伝えたいこと、伝わってますか?」
「はい」
「一つ、質問があります。行動と、在り方、どちらの方が大事だと思いますか」
考え込む受講生。
在り方とは何かの質問があり答えた後、行動が大事、何故ならば、と言った説明が続く。
「在り方を大切にしてる人が、行動しないってありえますか?この2つって分離不可分なんです。
気をつけてください。自己を中心に置いた人が、自己の都合で、時に、行動こそ全て、時に、まずは在り方だよ、っと語る。そう言う大人多いんです。
ま、そんな人にからまれたら、人災と思って、負の感情になる事自体が、負けだと思い、無関心で去るのを待つ、くらいの心持ちで、、、
伝えたかったことは、、、
7割のひとが、良い環境なら、良い人、悪い環境なら悪い人になる、と言われていて、在り方を大切にして、自分を持って、行動している人は、そうはならない、芯の強さがあります。これは、実現するしないの話ではなく、程度の話であり、武士道、柔道、のような、一生続く道、のはなしです。以前伝えた、人として魅力があるから仕事もできる人、にも、備わってる、生き様の指針であり、なかなか上手くいってないですが、私の指針でもあります。良い意味で、社会に染まることなく、そう言う、在り方も大切にしていって、人としても、成長していって欲しいと思います」
「有難うございます。頑張ります」

以前、noteに投稿した『タイムマシーンはいらない』で、成熟について書いた箇所を引用する。

成熟した者は、他者は意図で、自己は結果で評価する。
成熟しようともがく者は、成熟した者に憧れ、その実践を目指す。
月並みの者は、自己は意図で、他者は結果で直裁する。
月並みの者は、裏切られたと思い、嘆け悲しみ、相手を恨む。
相手に期待したのは、自己であり、その判断をくだしたのも、自己である。自己が抱いたイメージと、違っただけのこと。
成熟の素養がある者は、自己を責め、内省し、次に活かす、失敗をガソリンにした、成熟のエンジンが備わっている。

成熟した者には、芯の強さがある。成熟しようともがく者は、道を究めんとしつつ、筋を通そうともがく。成熟した者、しようとする者、誰しも誤ちは犯すが、筋を通せないことを恥じる。

今死んでも後悔しない死に様が私の理想の生き方だが、それは、成熟しようともがく生き様でもある。

仕事で人間関係に失敗した時、私を守るだけでなく、アクションが遅れてしまい本当に申し訳ないと、私に対しても謝罪し頭さえ深々と下げていた、私が尊敬する、私の上役は、まさに、真理・本質を捉えようとし、道を究めんとする者でもあった。

AI・データサイエンス業界の傾向か?
はたまた、今働いてる会社の傾向か?
はたまた、その掛け合わせか?

真理・本質を捉えようとする、人生哲学を共にできる仲間が多いのは、私にとって心底ありがたく、得難い、希少な、環境である。

「論点を1つまで研ぎ澄ませてください。多くても2つ。その2つは、トレードオフの関係にあります」

とある企画を一緒にしていたときに、その上役が呟いた。

「素材そのものを活かすのが良いとされるにもかかわらず、なぜ料理をするのか」という趣旨の小論文の議題に出会したことがある。
真理・本質とはえてして、そういうものだが、簡潔で端的であり、真に的を射抜き、他の追随を許さない。肯定的なシナリオは並列で3つ書くこと、云々カンヌン、小論文の書き方にはセオリーがある。真理・本質を紡ぐと、あいだみつおの呟きのような、小論文ができてしまう。セオリー通り書くのであれば、真理・本質なんて載せられやしない。

多数決による常識が、真理・本質とかけはなれることがあるように、小論文のセオリーなんて糞食らえ、である。

加熱調理は「体内の消火プロセスのアウトソーシング」であり、ホモサピエンスを今の人間たらしめた、我々を形造る、「第一の時代:言語と火」「第二の時代:農業と都市」「第三の時代:文字の車輪」の変化へと続いた、不可逆的な変化が動き出した、震源地なのである。

火の最大の功績、この着想は、真理・本質を射抜いた、まさに、目から鱗である。

P.S.
徒然なるままに書き殴り、長くなってしまったので、「第二の時代:農業と都市」以降については、別のnoteに投稿する予定だ。

「考えるヒント」シリーズの何処かで小林秀雄が「書いてみるまで、書こうとする事はわからない。書いてみて、自分はこう考えていたのか、と、しっくりくるのである」みたいなことを語っていた。
文章の拙さ等、レベル感は棚上げするとして、小林秀雄の心持ちで、徒然なるまま書き殴る。自分自身、書いてみないと分からないし、それが、書く楽しさの醍醐味の一つであり、自分自身で何を書きすすめるのか、楽しみである。

続く

私の人生哲学と、「人類の歴史とAIの未来」〜「第二の時代:農業と都市」編(1/2)

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