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年齢じゃない、誰もが世界に責任がある

先日、メキシコのクルナカンという町でもの凄く悲しい事件があった。私はアメリカに住んでいるのだけれど、トランプ大統領の作らせている国境沿いの壁を容認することになるからなのか、あるいはアメリカの中に沢山利益を得ている人達がいるからなのか分からなかったが、この事件は通常メディアで報道されなかった。

そのニュースにすら出てこないという異常さは、私には恐ろしく根が深い暗さとして感じられるのだ。日本でも殆ど知る人はいなかったのではなかろうか。

原文は英語なので、皆さん もしかしたら読む気もしないだろうから日本語のサイトをご紹介。2019年10月18日、最初は「麻薬王エル・チャポ」の息子を逮捕した、ということが報道されたが、その直後カルテル(麻薬組織)の報復が始まり街は戦争状態となった。そして結局政府は その逮捕したエル・チャポの息子を解放したのだ。つまり、政府はカルテルに降伏したんだ。

・・・ああ、アメリカのマフィアや日本でもヤクザの闘争あるもんね。

もしかしたらその程度に受け取っているひとが多いかもしれない。というか「え、大変な事じゃないの?え、そういうもんなの?社会がさわいでないってことはなんてことナイの?」という感じで自分の中でざわざわしたものを鎮火させてしまった人も多いのではないか。

コワイとおもうのは、散々世界中で紛争や戦争を繰り返し、冷戦の時代の核の恐怖まで味わった世界が「共存」「歴史を繰り返さない」方向へ進もうとしている(核のことはまぁ、まだいろいろあるからちょっと置いておくが)21世紀に、暴力が社会秩序を押さえ込んで勝ったというところだ。

このニュースを見たとき、本当に絶望的な気分になった。人間は結局、そこまで愚かなのか。力さえあれば何でも許されてしまう世界は終わる事はないのか。賢くなれない人類はやっぱり終わるしかないんじゃないだろうか。こんな問答無用に暴力をふるうひとたちに人類はやっぱり従い続けるのだろうか。自分の利権や土地を手に入れるために沢山のひとを殺すことを厭わない、そんな人達が闊歩して 21世紀も結局 何も変わらず地球そのものを破壊しながら突き進んでいくのか。

実はあれからずっと、この暗い気分が抜けなかった。どこにそれを止める手段があるというのだろう。Hopeless(希望をもてない)という言葉そのものだった。どうせ終わる世界なら毎日をただ愛でよう、そんな諦めににた気分にもなった。

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そんな感じで私の心の3分の1くらいがぐったりした状態だったころだった。たまたまシニア(アメリカの高校の最終学年)のパーティーに参加した娘が帰宅して来たときに とても疲れた様子で言った。「どうしてみんな、薬(ドラッグや麻薬)がカッコ良いって思うんだろう。なんで平気でやるのかな」

高校生、特に私立校に通う比較的経済的に余裕のある家の子は自由になるお金を結構持っていて当たり前に薬物を入手し使っている、というのはよく聞いていた。我が子を完全に信用するのは危ないけれど、我が家は知人のお子さんに麻薬過剰摂取で呼吸停止し亡くなった、というのが二人いるので よほどのことでもなければ手を出さないだろうと願ってはいる(それくらいの学習はしていて欲しい)。
娘は同級生ばかりのパーティーに行って、自分が仲良くしている子も平気で薬を使い、あるいは使っている話をし、「それくらい(危険なこと、中毒性)のこと、分かってる子だと思っていたのに」と帰宅して打ち明けてくれた。彼女が娘に勧めてはこないことは分かっていても、娘としてはその話に賛同もしたくないのにそこにいる、というのがとても辛かったらしい。
門限があるから、とさっさと帰ってきた、という娘に 少なくとも今はほっとした。

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メキシコ・クルナカンの事件、そしてアメリカの(私からいえば片田舎の)高校生の麻薬の売買・使用。それらふたつを考えていたら無性に腹が立ってきた。

ワカモノたち、君たちは自分たち一人一人がこの世界に責任があることを分かっているのか。

「お小遣いでヒトに迷惑にならない、自分の気が晴れるものを買って使ってるだけ」「別に他人に勧めてないし」「友達に話すより絶対に気分がよくなるんだからいいじゃない」「呼吸が止まるほど使うなんて、バカはしないよ」「私のお金よ?どう使おうと勝手じゃない」

君たちはそう思うのかもしれない。麻薬の中毒性については他のヒトも沢山書いてるだろうし、中毒の怖さを今ここで論じようとは(大切なコトだが)思わない。

ただ、私が言いたいのは あなたたちが「自分のお小遣いなんだから」と言っているお金が、結局はエル・チャポの率いるようなカルテルを「太らせて」いるんだということ。そこにつながりなんてナイ、と断言出来るなら、君たちは本当に歴史から何にも学んでいない。あの街の沢山の犠牲者は、君たちが進んで殺したも同然。

自分のやっていることは「誰にも迷惑かけてないからやってるんだ、いいでしょ」そうやって自分を正当化し他人に責任転嫁して好き勝手やることが、どれだけおぞましくて狂った世界をつくるか、本当に何も知らないの? きみたちが学校で学んだ世界の歴史は、そこに自分を当てはめて考えるということをさせないの?

どんな状況下だって、「胸に手を当てて」自分の心が何を言っているかを知っていたら、やって良い事と悪い事の判断はつけられるんじゃないだろうか。短慮の末やってしまって後(のち)に後悔の念に苛まれることはないのか。

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バタフライエフェクト という言葉をきいたことくらいはあるだろう。日本なら「風が吹けば桶屋が儲かる」ってやつだ。あるところで小さな蝶が羽ばたいたときに揺らされる空気が、長期的に離れた場所の天気に影響だってしかねない、ってやつだ。

半世紀も生きていれば私も「若気の至り」でオモシロ半分にしてしまった恥ずかしい出来事がある。罪にもならないだろう、まぁその時でも今でも笑って済まされるであろう程度のイタズラは、それでも私の心に抜けない棘のようになってずっとある。この棘の事件の影響でどこかの誰かの人生に波風が立っていたのかもしれないのだ。今それを考えただけで私はいたたまれない。あの時自分の良心にちゃんと従えばよかった、今本当にそう思っている。

閑話休題。

まだ若い、沢山の未来の可能性をもつ君たちには 自分の周りの半径3mですら実は見えていない。だけどおばちゃんにははっきりみえる。君たちは「今」から逃避する手段で麻薬やドラッグを「ちょっと手に入れて使っているだけ」でも、結局クルナカンの街のひと、あの戦いで亡くなった軍や警察の人達の「命」に責任があるのだ。

君たちには 遠い国の、ちょっと情勢の安定しない1つの街の事件程度にしかみえていないだろう。でもあそこでヒトの命を奪っていった一発の銃弾は、君たちが安易に入手した薬のお金から出ているんだ。


私達はみんな この世界に対して責任がある。

たとえ17,18歳の君たちだって 例外じゃない。


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この記事は梟さん主催『表現とこころ賞』応募作品です。


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