万が一を考えていく・・・のを避けている。

この有料マガジンは個人的本音を綴ったものを主にいれています。今回は「こんなもの」ということで全文読めるようにしています。

「日本の老人ホーム、つくってよ」

冗談のように、でも実は真剣な本音も混じる話を久し振りに向けられた。え、私?いやぁ確かに必要そうだけど自分が作るってのはつらいかなぁ・・・と笑って誤魔化す。その話を振ってきた友人は続けて言う。

「もう老後環境そこなんだよね、アメリカで死ねないって思う理由は」

となりで聞いていた友達も そうそう、と大きく頷く。
色んな経緯で海外に住む人達がいると思うけれど、海外在住者には共通して50台以降になると「身体が弱ってきたら」なんて想定をした、こんな話題が増えてくる。


自国内にいると日本式、というものを気付かなかったり、時には小馬鹿にしたような言い方で話す人もいる。けれど一度外の世界に出ると故郷の良いところ、日本式のすばらしさが沢山見えてくるというのは有名な話。

育った環境や習慣というのは何気に各個人の生活の隅々にじんわりと染み込んでいる。そしてそれらは海外在住者わたしたちには「日本式」という代名詞で一括りになった『それでも日々にあったらいいなとおもうもの・事』だ。
日々の小さいこととなると調理器具は菜箸やちょうど良い大きさと角度の網じゃくしみたいに日本で使いやすいなと思っていたものを今も使っているとか、諦めていても日本みたいな風呂文化があるといいのになぁと思っているとか、ちょっとした「ここは土足OKなところ、ここは清潔きれいなところ」みたいな区域分けを当たり前に日常に入れているとか、髪を切って貰うのは日本人の美容師さんがいいとか、撫でられるようなマッサージは良さが分からないから針やお灸がいいとか・・・

海外に何年、何十年と住むひとというのは、基本的に海外の習慣に慣れていくことを比較的厭わない人たちだと思う。それでも小さなところで「日本みたいにやってくれるところがあるならそのほうがいい」「日本にいたときみたいな道具があるならそのほうがいい」がある。諦めたつもりでも目の前に差し出されると「これ!ほしかったんだ!」と手を伸ばしたりするものだ。

一般の人にも手の届く、小綺麗で「自立した生活」をそっとサポートしてくれるような老人ホームというのもそういう「ほしい」もののひとつ。確かにこのソルトレイクシティエリアでもそんな場所は大体毎月五千ドルとか出さないとまともなところに入れないという。


どこで余生を過ごすか。
それは病気や身体の不自由さを得てしまうことを抜きには考えられない。つまり自分の判断で自分の努力で生きることの出来た時代にはなかった、「他人の助けを前提とする」ことだ。どうしても他人の助けを必要とする時期がでてくる、そのとき「誰に」「どういう風に」助けて貰うか、を考えるのは、自分でつくる人生を考えるよりも難しい。

日本式の老人ホームというのはそういう考えから自然に辿りつくものだろう。そして・・・新しいものが提供されるのを待つより「帰国しようか」になるのは、一番現実的な選択肢なんだと思う。新しいものを作るには情熱が必要だから・・・いや、作るだけなら出来るかもしれないが、続けることを考えるとやっぱり躊躇してしまう。

老後の悩みは日本にいても同じかもしれない。ただ同じ様なところに「こうだったらいいのに」を感じる人は多いだろうから改善もされやすい、というのはあるかも。

そんな老後をちゃんと計画して考えなきゃいけないのかなぁ、と、基本行き当たりばったりで過ごしている私は、反省を始めた所でまだ計画まで辿りつけない。突然死ぬかもとは思っているけれど死ぬまでの「他人の力を借りる」ことを考えるのはとてつもなく怖いのだ。

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極めて個人的な意見満載。毒を吐くほうではないですが、時々は正直になります。 気付いたらアメリカの田舎暮らしが長くなったので、その実際のところの話なども。

たなかともこの「自分の意見が強過ぎるなぁ」とか、「誰でも読める所に置くのは違うなぁ」というもの、外に出すほどでもないごく個人的なことが入っ…

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