2021年2月に読んだ本、観た映画、聴いた音楽
先月ゲーム沼を克服したとか嘯いてしまったのですが全然克服できておらず、2月下旬まで沼にはまっていました。いっそのこと徹底的に極めてみようと思い、プレイを動画に撮り、それを見返して改善点を書き出す。翌日ゲームを始める時は前日の改善点を振り返り、改善しているかチェックするというサイクルを試してみたところ、ゲーム沼から抜け出せそうです(3/8時点)。結局、ゲームをしたいから、というよりもイライラしたいからだらだらと続けていたのかも?と思います。
さて、前置きが長くなりましたがいきましょう。
1.読書
『最後のものたちの国で』『現代音楽史』『そして、バトンは渡された』『武器としての「資本論」』『音楽が聴けなくなる日』『お金の学校』『人新世の資本論』『リリアン』『自分の薬をつくる』の8冊でした。
『最後のものたちの国で』ポール・オースター著
ポール・オースターの隠れた名作。何度か読み返しているけれどSFとか好きだったら楽しめそう。ちょっとオースターらしくないと言えばそうなんだけど、これこそがオースターとも言える。
さっきまで存在していたものが目を離した一瞬でなくなり、何が真実で何が嘘なのかも判然としない国。訳者あとがきでオースターはこの国を未来ではなく現在起こっていることだ、と言ってるけれども今もなお有効射程、というよりもこの本が描かれた当時よりもさらにそれが逼迫しているように感じる。常に「今」の物語なんだと思う。
『現代音楽史-闘争しつづける芸術のゆくえ』沼野雄司著
中公新書の新刊。スティーブライヒが好きで深められるかなと思って手にとったわけだけど、自分が現代音楽だと思っていたものはそのほんの一部でしかなかった。初めて聞く名前がたくさんでてきた。むしろガーシュウィンとか出てくるとホッとする。
しかしただ人名を羅列して解説するだけでなく、歴史と絡めて現代音楽の成立を描いている点が素晴らしい。人名の羅列だとつまらないよね。
他の現代音楽家に比べてジョン・ケージが広く受容されているのはケージが「わかりやすい」からなのかもなあとか、断片的に感じたことがたくさんあった。
ただしクラシック音楽全般の一定の知識は求められて、「新古典主義」とか唐突に出てくるので読むのに苦労した。音大の学部1年生2年生あたりが読むと絶対面白い。漫画『ヒストリエ』を読んで「フィリッポス2世が喋ってる〜!」みたいな感動があります。ちょっと違うか。
『そして、バトンは渡された』瀬尾まいこ著
進歩的な家族感を描いた小説ではあるけれど、どこからしら保守的なものを感じてしまった。何となく進歩の皮を被った保守の雰囲気が漏れ出していた。とは言いつつさらっと読めて読後感も爽やかで好きです。
「こだわりで硬くガードしているから一度こだわりを捨ててみたら?」と昔、ある人に言われたことを思い出して読んだ本。自分はずっと大衆小説をどこか下に見ているフシがあって、そのために感性が損なわれているような気がしている。自分の中の馬鹿げた価値観を再構築してみたくて今年は自分がバカにしているものも積極的に吸収する。という決意表明。
『武器としての「資本論」』白井聡著
社会思想、政治学の専門家で京都精華大学教授の白井聡さんによる『資本論』の入門かつ一般書。一般書なだけあって読みやすい。出版社も東洋経済新報社だし想定読者はビジネスパーソンなのかな。
結論としては「食の感性を豊かにすることがマルクス的階級闘争」ということになりそう。ただしこの結論に至るまでの解説が必然的に長くなってしまう。「剰余価値」の説明もわかるといえばわかるが退屈に感じてしまった。
印象的だったのは前述の「食の感性」もそうだけど、「教育の商品化」は具体的で面白かったし、「最近の大学生」の態度に喝を入れているところも、その大学生たちと同じ時間を生きた人間として思い当たる節があり面白い。
『人新世の資本論』斎藤幸平
斎藤さんは本気で資本主義を終わらせようとしていることがわかる。
第1章〜2章くらいまでは本気度が伝わりにくかったけれども、それ以降の章では本気で資本主義に引導を渡そうとしていることがはっきりわかる。
なぜかというと難しい内容を研究者だけでなく自分のような一般読者にも伝わるように平易に書いているから。資本主義を終わらせるためには研究者や専門家だけの力では不可能で、一般大衆の力が絶対に必要であることを確信しているように思う。
「囲い込み」にかぎかっこが付いていたり、資本論の入門書を読み流した人にはより深く意味がわかるように、でも専門知識がなくても読みやすくて脱帽しました。
第1章〜2章で語られる「社会の外部化」や「転嫁」については、日本は先進国から発展途上国に下落した(宮台真司)と言われているけれども、それでもまだ日本が豊かであることを実感できる。
従前の生産力至上主義でもなく、エコ社会主義でもなく、脱成長コミュニズムの提唱するまでの論理展開が明確で説得力があり面白い。
また、バスターニの左派加速主義批判も的確だ。「右派加速主義についての批判がない」「そもそも加速主義についての定義が定まっていない」という2点は反論が可能ではあるけれども斎藤幸平さんの前では無力だと思う。「右派加速主義についての批判がない」点については批判の対象にもならないと解釈もできる。
環境問題に関心が高い人、資本主義的労働に疲れてしまっている人(つまり日本人の大半)は必読だと思います。『ファクトフルネス』のように、浄化を超えて人を癒す力がある本だと思いました。
資本論関連の入門書が売れに売れている状況は個人的に危機感を持っています。内容の良し悪しは一旦置いておいて(内容が良ければ売れるとも言えないし粗悪品がヒットしたりするし)、現代においてはマーケティングがいかに顧客にリーチするかだけが問題になっていて、そのような状態から資本論関連の本が売れて、最終的に誰が笑っているか、それは出版社が儲かるレベルの単純な話ではなく、ネオリベラリズムの文脈で語られなければならないと思っています。つまり、『資本論』そのものが既に資本主義に「包摂」されてしまっているということ。うまく言語化できていないのですが、『資本論』関連の本が売れることによって、皮肉にも資本家による搾取が強化されているのではないかということ。『武器としての「資本論」』と『人新世の資本論』を読んでそんなことを考えました。
『音楽が聴けなくなる日』
宮台真司目当てで購入。家族社会学の永田さんが音頭をとってピエール瀧さんのコカイン摂取による逮捕を受けて、レコード会社の自主回収を批判する内容。
冒頭の永田さんのこの文章が印象深い。
「現時点で自明と信じられている常識を疑うことで、社会が見えてくる」と言う姿勢です。常識は社会秩序の一部ですが、それは特定の誰かにとって都合が良い秩序であり、発言力が弱い立場にいる別の誰かを抑圧する機能を必ず合わせ持ちます。(p.4)
また社会学者らしく、ギデンズ、バウマン、リースマンなどの概念が出てくるので初学者にとって簡単な復習になる。
また、賛同人として巻上公一(ヒカシュー)さんにお願いをした際の言葉も非常に重い。
「僕にこの話がまわってきたということは、誰も受けてくれないということですね」(p.33)
最後の宮台真司の文章は圧巻で、いつものように定住革命から始まり、アートが傷をつける行為であることを指摘する。宮台らしく内容が高度で理解できない部分もあったがこれだけの熱量を持って毎回素晴らしい文章を書いているのは尊敬しています。
めちゃくちゃ脱線するけど電気グルーヴ関連のWikipediaは読むと元気になるし爆笑します。面白い部分を引用。
石野との初対面のとき、石野は赤いパンツ一丁で「よぉ!お前が瀧っての?」と言ったという。
「人生」では殿様やドラえもんの衣装でステージに登場し、踊りながら他メンバーとコーラスを担当。続けて電気グルーヴでも富士山やケンタウロスの着ぐるみを着てパフォーマンスを行っていた。電気グルーヴがドイツでライブを行った際、ケンタウロス姿で踊る瀧の姿が地元の新聞の一面を飾った事もあった。
原宿ルイードにてCMJKの脱退記者会見を石野と瀧が全裸で行う。
タレントの乾貴美子は学生時代この番組の陰毛イベント(企画の罰ゲームで作らされた伊集院光のチン毛で作った筆の筆下ろしをした)に参加するほどの熱狂的ファンであった
この特番は翌年のWIRE開催時も放送されたが、「石野放尿裁判」(酔っぱらった石野が、瀧の家のタンスの引き出しに放尿した事件)など、レギュラー放送当時以上にぶっ飛んだ内容と天久聖一の放送禁止発言が災いしたのか、二回で終了している。
1992年2月1日と1992年8月29日の番組の放送中に大きな地震が発生。2部時代1992年2月1日放送時に発生した地震では関東地方で震度5(当時の震度)を観測し、その瞬間に聴取率が大幅に上昇することを見越した2人は、ここぞとばかりに自らのバンドのプロモーションや番組の宣伝を行った。瀧は「揺れに合わせて体を動かせば大丈夫」などとネタトークも展開。地震速報を伝えるアナウンサーの前で下半身を露出するなどおどけていたが、地震のあった関東地方をカバーする局はそのまま速報番組へと移行し、放送が終了までそれが続いた。
別の日の放送後には伊集院に「細川ふみえ」になる催眠術をかけ面白がった瀧が「胸もませて~」と胸を触ろうとすると催眠術によって男からセクハラを受けた形となった伊集院が「キャー!」と絶叫、パニックに陥りエレベーターの1Fを連打し社内から飛び出そうとして大騒ぎになった。
番組放送直後の『VITAMIN』の内ジャケットの写真撮影のために富士山への出発を控え、性欲をもよおした石野が自慰をしたいということになり、急遽発案されたギャンブル企画。
1993年12月28日のその年最後の放送において、ニッポン放送の男子トイレから前代未聞のウンコ実況中継が行われた。これは本番前に石野がトイレに用を足しに行ったところ、流されずに放置された巨大ウンコを発見したため。
電気グルーヴまったく通ってこなかったんですが、カオスすぎませんか。字面だけでおかしい。90年代といえばたぶんジュディマリのラジオを毎週録音して聴いていたような記憶があるんですが、キャバクラから放送とかYUKIが「エロQ」(答えが下ネタっぽいけど実は普通の答え)で放送禁止用語を連呼するとかでかなり衝撃だったのに電気グルーヴのオールナイトニッポンは比較にならないくらいやばい。多くの人の人生を変えたであろう番組はもうこれから作られることがないのは悲しい。
こういう90年代の「古き良き」(このかぎかっこは留保のかぎかっこ)カオス感って今のYouTubeでは存在しないんでしょうか。あり得そうだけど、時代の難しさもありそう。
『お金の学校』坂口恭平著
死にたい人の話を聞く「いのっちの電話」を10年近く続けている坂口恭平さんの新刊。noteで無料公開されているものの、とても大事なことが書いてある気がして書籍を購入。
本当に躁鬱治ってる??と思ってしまうくらい鋭くて明快な文章にただただ圧倒されます。
「難しいことを簡単に書く」という点で『人新世の資本論』と共通しているけれども、『お金の学校』は一文単位で何が書いてあるか明確に理解できるのに、全体では何を言っているのかまったくわからない。これは実は文書としてとても高級なことだと思っています。
カールルイスのくだりとか晩年に発狂してやばい手紙を友達と家族に送り続けていたニーチェを思い出しちゃった。
『リリアン』岸政彦著
読み終わって、わーっと言葉が頭の中を駆け巡って、いてもたってもいられなくなったので別記事に書きました。
『自分の薬をつくる』坂口恭平著
『お金の学校』があまりに衝撃的だったので続けて購入。坂口さんの本ってすくなくともこの2冊は10年後も本棚に大切に並んである様子が想像できる。
めちゃくちゃ簡単に言うと「アウトプットしましょう」の一言に尽きるんだけど、断片的に本質的なことがさらっと書き散りばめられている。
何かを表現している(しようとしている)人に圧倒的に勧めたい。
2.映画
『トゥルーマン・ショー』『グリーンマイル』『佐々木、イン、マイマイン』『花束みたいな恋をした』『窮鼠はチーズの夢を見る』『私をくいとめて』の6本。
『花束みたいな恋をした』
「30代鬼女が花束みたいな恋をしたの菅田将暉に喝」というclubhouseでやっていた友人のルームが面白かったので映画館に観に行きました。そして3週間後に2回目を観に行きました。
「エヴァと村上春樹はnoteで書いちゃいけない」みたいなことを友人が書いていたけれども「花束みたいな恋をした」も書いちゃいけない気がする。
言いたいことがありすぎるんだけど、自慰行為を隣で観られているような恥ずかさしがあるので書けません。感想を言い合うと、その人がどんな青春を送ってきたのかとかがわかってしまう。恐ろしい。
1回目を観てから3日後に『窮鼠はチーズの夢を見る』のオンライン鑑賞会を友人とやったのですが、観終わっても『花束みたいな恋をした』の感想を言ったり、頓珍漢な狂乱によりまじで友達を2人なくすところだった。
(その節は本当にすいませんでした)
最近は映画ブームが落ち着いてきて、観る本数が減ってます。
3.音楽
細野晴臣「あめりか/Hosono Haruomi Live in US 2019」
細野晴臣さんって実は「Hosonono House」しかちゃんと聞いてなかった。大学生の時に「ろっかばいまいべいびい」聴いて、いいなと思って「トロピカル三部作」を聞いたけど耳に馴染まなかった。
今こうやって聴くと、なんか良いな、がちゃんとある。この音の重い緩さってスチールギターだけじゃないくてリズムも要因なんだろうな。
「トロピカル三部作」とはたぶんまた違うんだろうけど、それでも様々な非西欧圏の音楽がごった煮にしている感はある。
坂本龍一と細野晴臣って「西欧圏/非西欧圏」をちょうど対極で表現していて、それは「インテリ/土着」という二項対立に対応しているように思える。もちろんどちらが良いという問題じゃないし、細野晴臣は立教大学卒業だからインテリでもあるわけだが。
両極端が実は隣同士で、その橋渡しが高橋幸宏だったっていうバンドがYMOだったのではと思っています。だから絶妙なバランスでギリギリ均衡が保たれていた。何を言いたいかと言うと、高橋幸宏さんみたいな人がバンドでは一番重要だと言うことです。
そうそう。昔、福岡のサンセットという野外フェスで日本の某スカバンドを見たんですが、すごく残念な気持ちになったことも思い出した。
演奏が完璧すぎて、大音量で野外でCDを聴くのと変わらないライブ。それと同じくらいテーマが終わった後に管楽器全員がペットボトルの水を口に含むのが気になってしまった。きっと本番前のリハとか大変だったんだろうな。
ライブって本当に難しくて、ただ演奏が完璧なだけでは良いライブにならないということを実感したアルバムでした。
「SOOTHE & SLEEP 8」Kenji Kihara
毎月3曲くらいずつ出てるので買ってしまう。SoundCloudでも聴けるけどどうせなら好きな人たちを応援したいので購入してます。
サイードの「オリエンタリズム」に飛び込まず、かつ、飲み込まれない音楽のあり方を考えていて、もしかしたら木原健児さんや宮内優里さん、Hakobune、畠山地平さんを参照できないかなと思っています。
うまく言語化できないんだけど、上記の人たちに共通しているのが音を繊細に扱う感性とか(とは言いつつ海外のミュージシャンが音を雑に扱っているとは思わない)音に情緒とか有機性を組み込める点。それは自分が知る限りにおいて海外の音楽にはあまり見られなくて、何となく日本、または東アジア圏に独特なのかなと思ったりしています。ただしこれは主観に基づくものなのでかなり微妙。実際、海外のドローンをたくさん聴いているわけではないので(人並みには聴いてるよ)、何ともいえない仮説です。
「J-POPは終わらない」SASUKE
Eテレの「ワンルームミュージック」で知りました。確か若干17歳。
既にSASUKEって聞くとフォークデュオの方しか思い浮かばないんですが、若いほうのSASUKEさん。
90年代〜00年代のJ-POPを参照しながら時代に合った楽曲を制作していて本当にすごい。「ワンルームミュージック」出演時でも堂々と話していて、自分よりしっかり喋れてるじゃん・・・と嫉妬しました。
新しいものすべてに価値があるとは思わないけれども、10代の若者が参照する音楽が90年代〜00年代のJ-POPっていう状態に、30代以降のミュージシャンは危機感を持たないといけないのかもなあ、とぼんやり思いました。私たち、10年代何してたの?って思ってしまう。古いておじさん的価値観だけれども、若者が楽しく新しい道を歩めるように道を整えていって、時代についていけなくなったと感じたら潔く道を譲るのがおじさんのあるべき姿だと最近の政治事情を見ていても思う。
最後はおじさんの怨嗟になってしまった。
----------------------
インプットした分だけアウトプットしないとバランスを整えられない体質であることに気がついたとはいえ、このアウトプットの仕方が義務感になってきてしまっているのでこの記事は今月でやめるかも。本はアウトプットしていかないと危険なので何かしらの形で発信し続けたいです(願望)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?