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死にたい気持ちを抱えて生きる

キッチンで包丁を洗っているとき、ハサミやカッターを使っているとき、横断歩道で号待ちをしているとき、駅のホームで電車が来るのを待っているとき、段差が急な階段を降りているとき、高台に登って遠くの街を見下ろしているとき。そういった瞬間に、私は決まって死を連想する。ひとつ行動を起こせば、一歩分の勇気があれば、私は簡単に死んでしまうのだと、安心と不安が入り混じった感情が胸の奥で渦を巻く。その意思さえあればいつでも死ねるんだという安心感と、意思など無くとも簡単に死んでしまう可能性があるんだという不安感と。実際行動に移したことは、移せたことは、これまでに一度も無いが。





死にたいと零せば「生きたくても生きられない人がいる」なんて言葉が返ってくるだろう。その言葉を吐く人はきっと励ましの意味を込めて言うのだろうが、こちら側からすれば残酷以外の何でもない言葉である。「死にたがっている人に生きろと言うのは、生きたがっている人に死ねと言うのと同じだと思うの」という何かの漫画のセリフを聞いたことがあるが、まさにそれだ。確かに病気などで望まぬ死を迎える人は数知れずいるけど、その人と自分の人生は全く別物で、関係ない。この命も人生も自分だけのものであって、他人に委ねていいものではない。だからこそ極端な話、どう扱おうが己の自由であるのだ。

生きたくても生きられない人がいるから、と言われて生きたところで、死にたい自分の気持ちは報われないし、生きたくても生きられないその人の命が救われるわけでもない。死にたい自分が必死に生きたことで未来を閉ざされた人に直接利益が生まれるなら、頑張って生きようと思えるかもしれないが、そんな馬鹿げた話は存在しない。

でもこれは、私が「生きられるけど生きたくない人」であるから思うことだ。こちら側の人間だからこそ、未来がある程度保証されている立場だからこそ、そんなことが言えるだけだ。あちら側の人間からすれば、私の考えや意見には歯を食いしばるほどの怒りが湧くだろう。恐らく、私自身も立場が変われば同じことは言えない。だからこそ、読み手にはあくまでひとつの意見として受け取ってもらいたい。


私だって本当は、そんなに呆気なく命を捨てたいわけではない。出来ることなら、全身のあらゆる臓器や残りの人生をそういう人たちに分けてあげたい。生きたい人が生きられて、死にたい人が死ねる、そんな世界になればいいのにとも思う。けれど、世の中それほど上手く出来ていない。そう、出来ていないからどうしようもないのだ。

そもそも、死にたいと思うことってそんなに悪いことなのだろうか。生きるのが正しいなんて、誰が決めたんだ。どうせ最後は、みんな等しく死ぬ。遅かれ早かれ、絶対に死ぬ。過ごした時間が長くても短くても、死後の世界が空っぽなら意味はない。

私が願うのはひとつ、死にたいと思う気持ちを否定しないで欲しい。ただ、それだけ。

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