落語を楽しむには、鑑賞するのではなくひょっこり居合わせるのがコツ

119.ひょっこり居合わせる

のんきで、かつ長閑なものに、いま猛烈に焦がれている。

それなら落語を聴くがよい。落語に「千早振る」という演目がある。このあいだ春風亭一之輔がライブ配信で演っていた。聴き逃してしまったが、翌日には、やはりライブ配信で柳家小三治もおなじ噺(はなし)を演ったそうである。

有名な演目だからべつに不思議でもなんでもないけれど、世の中のムードがこんな時に、噺家が「千早振る」のような毒にも薬にもならない、ただご隠居と八五郎の他愛のない会話を楽しむためだけに存在するようなネタを掛けたくなる気持ちはわからないでもない。

この落語の筋は、いたってシンプルだ。小倉百人一首に収録されている歌「千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」の意味を教えてもらいにきた職人の八五郎を相手に、ご隠居が知ったかぶってひたすらテキトーな回答をしまくるという、ただそれだけである。当然、聴いているこちらもあまりむずかしく考えるべきではない。昼下がりのピースフルな空気に身を浸しながら、八五郎と隠居がかもしだす「仲の良さ」をニコニコとかたわらで見守っていさえすればそれで十分だ。

そういう意味でいくと、このあいだ聴いた一之輔の「千早振る」はただただひたすらに馬鹿馬鹿しい、まったくもって正しい「千早振る」であった。サゲ(オチ)も独特だし、くすぐり(ギャグ)も溢れんばかりでラーメン二郎並みのボリューミーな落語は、たしかにややもすれば胃もたれしかねないものではあるが、横丁でふたりの会話を立ち聞きしていると考えたら、こんなにものんきで、かつ長閑な気分もないなと顔が自然とほころんできた。じっさい、演者のもとを離れて、まるで勝手に八五郎とご隠居がくっちゃべっているようであった。

しかも、ふつう隠居は「物知り」という設定なのだが、この一之輔版「千早振る」のご隠居はほんとうに物を知らないというか、馬鹿!というところが斬新。八五郎と隠居のレベルがおんなじ!馬鹿どうしの会話なのである。そして、こうした換骨奪胎の手際の鮮やかさという点でいえば、おそらくいま一之輔の右に出る者はいないのではないか。

自分がそうだったのだが、なじみのない人にとって落語はなんとなく敷居が高く、鑑賞の仕方がよくわからないものである。時代設定が古くて感情移入できないとか、出てくる単語が聞き取れないとか、その原因はいろいろだろう。

だが、じつはそうしたディテールはどうでもよくて、落語を楽しむには、ご隠居と八五郎のしょうもないおしゃべりや、町内の若い連中がわちゃわちゃ騒いだりしているのを一緒になって面白がっていさえすればそれでいい。ストーリーの意味を必死に追ったり、没入するのではなく、ただそこにひょっこり居合わせるのが落語を楽しむ極意だからである。

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