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【映画】シスター 夏のわかれ道 Sister/イン・ルオシン

タイトル:シスター 夏のわかれ道 Sister 2021年
監督:イン・ルオシン

近年アジア圏の映画、特に「はちどり」や「82年生まれ、キム・ジヨン」のような韓国映画で取り上げられる事が増えている家父長制。そして中国国内ではその問題に輪をかける様に少子高齢化を招いた一人っ子政策があり、アジア圏全域に根強く残る家制度のあり方が問題視されるようになってきた。
中国の一人っ子のステレオタイプな姿はそれとなくイメージが出来るし、甘やかされてワガママに育てられた世代といった想像は結構しやすい。けれどそこでイメージする一人っ子の人達を思い返せば、ぱっと思いつくのは男性ばかり。そう考えると”家を継ぐ”のは男でなければいけないという家父長制の輪郭が見えてくる。一人っ子政策自体は2014年に緩和されて二人っ子政策に以降しているけれど、その爪痕が今のZ世代にものしかかっている。
本作は一人っ子政策時代に生まれ親元から離れて暮らす(絶縁状態に近い)二十代前半の女性アン・ランが、不慮の事故で亡くなった両親と暮らし孤児となった弟アン・ズーハンを一時的に引き取る所から始まる。アン・ランは家族に頼らず大学の学費や生活費を全て自分で賄い、北京の大学院に進学しようと自分の道を切り拓くために努力を重ねている最中に、突如弟の養育を親族から押し付けられる。進学先を地元の大学へと親に勝手に変えられ、男性優位な家制度から逃れようと日々こつこつと目標に向けて突き進むアン・ランは、家父長制と一人っ子政策によって爪弾きにされた女性像を担っている。方やいかにも一人っ子な弟アン・ズーハンの幼いながらも唯我独尊な振る舞いは、家父長制の男性側を描きながらも、未就学児さながらのひとりでは何もできない弱さがある。女性の自立と、血の繋がった家族の形は単純に割り切れるような答えは出せないもどかしさを痛感させる。
物語全体で描かれているのは、一人っ子政策の最中で女性として生まれてきた事の葛藤が、親世代、Z世代、幼児世代それぞれの実情であった。親世代である叔母は家父長制の中で生きるしかない人生の中で、奔放に見えるアン・ランの姿に反発しつつ、そこに慣れてしまった自分に気づく。そこで表出するのは出鱈目に生きる男たちの姿であり叔母が弟(アン・ランの父)の存在のせいで自分が学業に勤しめなかった姿がオーバーラップされ、世代間のバトンが手渡される。
アン・ランの恋人も一人っ子政策と家父長制に挟まれた存在である。看護師として働く病院で敵対する女性は、良家の子女でアン・ランのような自立を目指す人間とは真逆の存在として描かれていた。死ぬかもしれない男児の出産や、不妊のためか男児の養子をとろうとする子供のいない夫婦など、あらゆるパターンの家族の形が次々と登場する。家父長制から浮かび上がる中国が抱えるジェンダーの社会問題が、あらゆる角度から描き出されていく。リアルな中国の姿があられもなく紡ぎ出されていくのを目の当たりにする事ができるところが、この映画の真骨頂だと感じられた。
とはいえ、手放しに絶賛出来るかというとそうでもなく、ラストでアン・ランが取った行動はこれらの問題を棚上げしてしまっていて、賛否が分かれる所ではある。ベタなドラマにランディングしてしまった感もあり、綺麗に終わらせようとする都合の良さも感じてしまった。フィックスではなくハンドカメラによる映像は、心の不安と登場人物の心の揺れを上手く描いていたし、所々登場する四川の美しい街並みはファンタジックな雰囲気を醸し出していた。出来れば引きで撮った街なみをもっとふんだんに盛り込めたら、登場人物たちの孤独感をより演出出来たのではないか。その点ではディアオ・イーナンやビー・ガンら映画監督は、孤独感を上手く抽出していたので、その部分の物足りなさは片鱗があっただけに惜しい気持ちが優った。被写界深度の浅いボケ感のある映像で人物を描いていたのは良かったが、途中惨状的にベタな感動を促す音楽が耳障りで、大半を占めるアンビエントな音楽が台無しになったキライもある。もう少しウェットなドラマ部分を削って、もう少し人間模様をソリッドに描き切れば傑作になり得たんじゃないかなと強く感じてしまった。
キャストの配役は若干大味な感は否めないものの決して悪くなく、特に主人公のアン・ランを演じたチャン・ツィフォンは魅力に溢れていて、無表情が語る演技を見ているだけで飽きることがない。角度によって表情が一変するし、厭世観も恋人との笑顔のやりとりもキャラクターの幅の広さを感じさせる。長澤まさみと満島ひかりが合わさったような表情と、ベリーショートの髪型とファッション(彼女が着ている服の素晴らしいマッチング!)と立ち振る舞いは映画のアイコンとして申し分なかった。麻雀に散財するだらしないおじ役のシャオ・ヤンの憎めない役柄は本当に素晴らしく、こういう守銭奴などうしようもないキャラクターを出してくる事で、程よいアクセントになっていた。
ピンク・フロイドのシャツやPCに貼られたクラッシュ乃ロンドンコーリング、アンドロイドのスマホなのにiPhoneの着信音が鳴ったりと、国外の文化への監督の目配せやこだわりが垣間見れる。こういったあたりから、映画作りの上で色々と縛りがあるのかなと余ってしまう。

今の中国がすごいなと思うのが、こういった映画が世界的な興行収入でハリウッド作品を軽々と超えてしまう現実が突き付けられている所でもある。「少年の君」や同じく多大な興行収入を作り出した「こんにちはお母さん」など、一国で世界に比類するパワーが中国にある現実がまざまざと突きつけられる。これらの映画を観ても、アジア圏の中でも日本や韓国、タイなどの映画産業に比べれば、洗練の域まで達してはいないかもしれない。しかし一方でタルコフスキーや村上春樹の影響を感じさせるビー・ガンの「ロング・デイズ・ジャーニー」やディアオ・イーナンのフィルムノワールな「鵞鳥湖の夜」、グー・シャオガンの水墨画のような「春光水暖」などシネフィルを唸らす映画も存在する。検閲や縛りを巧みに逃れ、社会的なテーマ性とポエティックな映像、脱ドラマ性に至る作品が生み出された時に中国の映画が、世界を席巻する日も遠くないのかもしれない。
大味ではあったけれどインティメイトな本作を観て、中国映画の可能性と爆発力は注視すべきだなと改めて思った次第であった。

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