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【映画】アル中女の肖像 Bildnis einer trinkerin/ウルリケ・オッティンガー


タイトル:アル中女の肖像 Bildnis einer trinkerin 1979年
監督:ウルリケ・オッティンガー

東西に別れていた頃のベルリンが醸し出すデカダンス。クラシカルな雰囲気も漂うモードな服装。クラウス・ノミほど奇抜なファッションではないにしろ、そこにあるクラシカルな要素は通じるものがある。そう、映画全体から感じられるのはニューウェーブならぬNeue Deutsche Welle(ノイエ・ドイチェ・ヴェレ=ジャーマン・ニューウェーブ)な感覚がある。クラウス・ノミやDevo、プラスチックスのような人工的なキッチュさと、相反するドイツらしい重厚さをカラフルなファッションで包み込む。かつてデイヴィッド・ボウイも拠点に選んだベルリンの街の持つモノクロームな雰囲気と無機的な建造物や廃墟の中で、カラフルな服と鮮やかな対比を生み出す。
歌以外は一切しゃべらないけれど煌びやかな服装の主人公に対して、浮浪者や小人症の男、女装の男、系統学や社会学やフェミニズムを語り合う女性3人組から浮かび上がるのは、ファスビンダーとは違ったマイノリティの描き方である。マイノリティの人々を邪険にする事もなく、ドラスティックに共存する。映画のテーマにはフェミニズムも含まれるが、3人組が語るダメな女性像が真横で実践されていて、フェミニズムすら茶化したようなステレオタイプな考えも破壊しにかかる。飲むために生き、飲みながら生きる。主人公の選ぶまま酩酊する様が最初から最後まで貫かれる。彼女が何を思ってそこに至ったのかは全く描かれず、ただひたすらベルリンのあらゆる場所で酒を飲む。優美かつキッチュな服装と堕落を意味する酩酊。規律のメタファーとしての豪華な服装は、同時に酒を飲む事で規律を破壊する。端からグラスは粉々に破壊され、バーテンにはあいさつも無いと揶揄される。ドイツらしい構築美とパンキッシュな破壊と破滅が不条理にひたすら描かれ、われわれ観客はそこに映る被写体や映像の美しさに酩酊する。
ドラマツルギーすら破壊され、ただただ目の前に起きる事をまま受け入れるしかないポストモダンな作品なのだけれど、映像がもつ美しさに翻弄される。派手さを押し倒す様子はケレン味と片づけられないし、元々フォトグラファーとして活動していたオッティンガーの美意識が貫かれている。「ベルリン天使の詩」で知られるベルリンの中心部にあるジーゲスゾイレ(女神像)へと歩むシーンを観た時、脈絡は無いにも関わらず言葉に出来ない感情に心を強く打たれた。

荒唐無稽な酔っ払いの映画なのに、形而上的な描写が印象に残る。舞台劇のようでもあり、ヴィデオクリップの寄せ集めの様でもある。一応物語のアウトラインはありながら、常にアウトラインを崩しにかかる。ラストの鏡の部屋を踏み潰していく辺りも、刹那と破壊が同時に行われる。
ファスビンダーの「第3世代」やシュレンドフの「ブリキの太鼓」に通じるマイノリティの感覚はありながらも、70年代のフェミニズムが根幹に感じられる。しかしファスビンダーやアケルマンの様なフェミニズムとも一線を画した感覚がある。ただひとつの女性の在り方を示した映画として捉えると、当時よりも今現在の方が映画のテイストを感じとりやすい環境なのだなとつくづく感じられた。
酒場で登場するニナ・ハーゲン(映像の世紀を参照されたし)の存在もさることながら、タベア・ブルーメンシャインのマドンナを凌駕する眼の形の美しさがスクリーンからほとばしる。調子っぱずれな「ベルリン、愛するベルリン」と歌われる屋上の歌唱は、この映画の一番の見どころだと思うのだけど、彼女がDie Tödliche Dorisのメンバーと知って驚いた。楠本まきが作品のタイトルで引用した「致死量ドーリス」の元ネタDie Tödliche Dorisというバンドは、80年代ノイエ・ドイチェ・ヴェレの代表的なバンドである。かつてマドンナがニューヨークのソニックユース界隈のノーウェーブシーンから登場したのに対して、ブルーメンシャインがドイツのニューウェーブから登場しているのに妙な因縁を感じるのは僕だけだろうか。
とにかくこの映画から感じられるニューウェーブ感と、70年代フェミニズムと80年代を予期するポストモダン及び不条理がもりもり詰まった感覚は、今観た方が楽しめるし、理解も深まる作品だと思う。

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