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ジョアン・ジルベルトガイド㉘/AO Vivo NO SESC 1998
1998年に行われたサンパウロSESCヴィラ・マリアナ劇場でのライブ音源がフィジカルと配信でリリースされた。特筆すべきは録音状態の良さで、声とヴィオラォンがかなりオン気味にくっきりとした状態で収録されている。公式でもブートレグでも音質の悪いものが多いジョアンのカタログの中でも、群を抜いて音が良く安心して聴くことができる。2020年にリリースされたサンパウロのライブ盤の様にステレオを広げる無理なエフ
もっとみるジョアン・ジルベルトガイド㉗/カルロス・コケイジョ宅で録音された1959年と1960年の発掘音源について
※有料に設定していますが全文読めます。
最高労働裁判所裁判長であり、ヴィニシウス・ヂ・モラエスの友人で、ジョアンも取り上げた「許してあげよう(E' Preciso Perdoar)」の作者でもあるカルロス・コケイジョの自宅で録音された音源が公開された。
Joao Gilberto/E' Preciso Perdoar
録音は1959年9月10日コケイジョ宅、1960年10月29日のヴィニシウ
ジョアン・ジルベルトガイド㉖ / ゲッツ/ジルベルト 名盤の誕生
ゲッツ/ジルベルトのアルバム一枚を通して誕生からその後までを紹介する本が出版された。
ページを開くと字の大きさにちょっと引くのだけれど、対象年齢の高さがありありと出てしまっていて、このアルバムに一番親しみを覚える年代を考えれば仕方ないのかなと思う。
ここでは本の簡単なまとめと、本では紹介されなかった部分の補足を行っていきたい。
本書はゲッツ/ジルベルトと書かれているものの、ジョビンとヴィニシ
ジョアン・ジルベルトガイド㉕/ライブ・イン・サンパウロ 2008 A Night in Brazil
ボサノーヴァ誕生50周年 2008年に行われたサンパウロでのライブ盤
ボサノーヴァ誕生50周年に当たる2008年にサンパウロとリオデジャネイロでライブが行われ、本アルバムはその中の8/14のサンパウロ公演がアンコール含め全曲収録されている。「In Tokyo」のような静謐さを感じさせるものではないものの、ホームならではのアットホームさを感じさせる。選曲もライブで定番のものから、2019年にリ
「ジョアン・ジルベルト初期三部作をリマスターされた音で聴く」
宮田茂樹さんが秘蔵するジョアン・ジルベルト初期3部作のオリジナルテープからのリマスター音源を聴くイベントに行ってきた。司会はブラジル音楽を広く紹介している中原仁さんで、バイオグラフィーを捕捉し進行役を担いながら宮田さんを支えていた。
昨年の3月に風知空知で試聴会を行なっていたので、初ではなかったもののこの時の会に参加出来なかったので、やっとこの音源に触れることが出来た。
先に結果から言えば
ジョアン・ジルベルトガイド①/想いあふれて Chega de saudade 1959年
・全ての始まり
詩人であり友人のホナルド・ボスコリから拝借したセーターを着込み、肩肘ついてこちらに視線を送るひとりの男。28歳にしてアルバムをリリースしたジョアン・ジルベルトのファーストアルバム。ジョアン・ジルベルトの初期三枚はサンバから換骨奪胎し、新たな音楽を作り上げブラジルの音楽だけでなく世界の音楽を変えた。このアルバムがリリースされた1959年の前年にSP盤「Chega de saud
ジョアン・ジルベルトガイド②/愛と微笑みと花 O Amor, O Sorriso E A Flor 1960年
アントニオ・カルロス・ジョビンはジョアン・ジルベルトと新たなアルバム制作を行うため、自然に囲まれた山奥のポッソ・フンドの別荘へとジョアンを誘う。
ジョビンとジョアンはその年の記録的な大雨でぬかるんだ道を抜け(途中ジョアンが道端で見つけた大蛇を狩りに行くというハプニングを挟み)、到着したポッソ・フンドの家で一週間ほど過ごす。あたりの鳥のさえずりや川の流れる音に囲まれながら、ふたりはろくに食事も
ジョアン・ジルベルトガイド③/ジョアン・ジルベルト João Gilberto 1961年
・サンバがテーマだったものの…
2枚のアルバムがヒットしたものの、ボサノーヴァブームにより巷に似たような音楽が溢れ帰ると、ジョアンはそれらの自分とは異なるイミテーションたちに嫌気がさし、世間のボサノーヴァというレッテルから脱却しようと、改めて過去のサンバに立ち返ろうとする。
3枚目のアルバムを作るにあたり、ジョアンとジョビンの仲は険悪な状態に陥っていた。これまでジョビンとジョアンだけでなく
ジョアン・ジルベルトガイド④/ウン・エンコントロ UM ENCONTRO 1962年
・輝かしい日々の終わり
1962年、ジョアン・ジルベルトは映画「コパカバーナ・パレス」に出演し、オス・カリオカスと共にSó danço Sambaを、アントニオ・カルロス・ジョビンとルイス・ボンファと三人でCançao do mar(ボンファ作)を披露する。
・そして新たな門出の始まり
そしてこの年、元レストランのライブハウス「オー・ボン・グルメ」にてジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モラエス
ジョアン・ジルベルトガイド⑤/黒いオルフェep Cantando As Músicas Do Film Orfeu Do Carnaval 1959年
・黒いオルフェ
ここで、時計の針を少しばかり戻したい。
1959年、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ヂ・モラエスによるオルフェのブラジル版「Orfeu da Conceição」をベースにした映画「黒いオルフェ」が公開される。サウンドトラックを製作する際にジョビンとルイス・ボンファが招集され、主演の歌部分の吹き替えをする歌手が必要となった。ここでジョアンは候補として名乗り上げた
ジョアン・ジルベルトガイド⑥/ゲッツ/ジルベルト Getz/Gilberto 1963〜1964年
・このグリンゴにお前は馬鹿だと伝えてくれ
1963年3月、ヴァーヴと契約したジョアン・ジルベルトは、スタン・ゲッツと連名になるアルバムのレコーディングを開始する。しかしジョアンの目指す音楽に対して、求めるものを理解できないゲッツに、それまでのレコーディング同様に癇癪を起こす。
「このグリンゴにお前は馬鹿だと伝えてくれ」英語を喋ることのできないジョアンは、決して流暢ではないジョビンに通訳を託し
ジョアン・ジルベルトガイド⑦/ゲッツ/ジルベルト#2 Getz/Gilberto#2 1964年〜1969年
・ヨーロッパツアーとアメリカでの日々
1963年3月、スタン・ゲッツとのレコーディングが終わると、ジョアン・ジルベルトはセバスチャン・ネト、ミルトン・バナナ、そしてもう一人の伝説ジョアン・ドナートともにイタリアツアーへ出発する。この時のふたりのジョアンの演奏は今のところ発掘されていない。
この時彼らが演奏していたブッソロットというライブハウスの、別フロアではブルーノ・マルティーノが出演してい
ジョアン・ジルベルトガイド⑧エン・メヒコ/En Mexico 1970年
・メキシコでの生活
1969年、ジョアン・ジルベルトはメキシコシティでのライブに招聘されたあと、この地が気に入り居を構え、日本風家屋(どういった家なのか未だによくわからない)に2年ほど暮らすことになる。
(この頃、中国の卓球選手から卓球を学ぶなんてことも。)
ミウーシャによるとメキシコシティはブラジルに近い雰囲気があったことから、ニューヨークを離れてそのまま滞在する事になったという。
レコー
ジョアン・ジルベルトガイド⑨/三月の水 João Gilberto(1973) 1971〜1973年
・ブラジルへの一時帰国
1971年8月。ジョアン・ジルベルトはブラジルのテレビ局トゥピーTVからジョアンの特番への出演依頼を受ける。そこでジョアンはロンドンに亡命していたカエターノ・ヴェローゾへ電話をし、一時帰国して一緒に番組に出演しようと持ちかける。
軍事政権と関わりたくないカエターノを説き伏せ、ガル・コスタ、トン・ゼー、ホジェーリオ・ドゥプラなどが集まり、6時間に及ぶライブの収録が行われ