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ジョアン・ジルベルトガイド⑦/ゲッツ/ジルベルト#2 Getz/Gilberto#2 1964年〜1969年

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・ヨーロッパツアーとアメリカでの日々

1963年3月、スタン・ゲッツとのレコーディングが終わると、ジョアン・ジルベルトはセバスチャン・ネト、ミルトン・バナナ、そしてもう一人の伝説ジョアン・ドナートともにイタリアツアーへ出発する。この時のふたりのジョアンの演奏は今のところ発掘されていない。
この時彼らが演奏していたブッソロットというライブハウスの、別フロアではブルーノ・マルティーノが出演していた。ここで耳にしたEstateは後にジョアンがカバーすることになる。この頃ジョアンは腕の不調を訴えていて、イタリアツアーが11月に切り上げられると治療のためひとりパリに向かう。ここで後に妻となるミウーシャと出会う。
1964年3月にGetz/Gilbertoがリリースされる頃にはジョアンとアストラッドはすでに別れており、ミウーシャと暮らしていた。5月にThe girl from Ipanemaがシングルでリリースされヒットする最中、同月ゲッツとアストラッドはオー・ゴー・ゴーにてライブ(年末にアルバムとしてリリース)を行う。

10月にはカーネギーホールにてゲッツのバンド、ジョアンのトリオ、そしてアストラッドを交えたゲッツとジョアンの共演が催され、このライブは1966年にGetz/Gilberto#2としてリリースされる。現在CDではボーナストラックが入りレコードには収録されなかったアストラッド、ゲッツとジョアンの共演が収められている。
そして1964年といえばビートルズを始めとするブリティッシュインヴェイションが勃発し、アメリカのチャートを席巻した年である。イギリスからの波はティーンの心を掴んだかもしれないが、ジョアンらの音楽はグラミー賞を受賞したことからも分かるように、明らかにもう少し上の世代に響いていた。真っ向から対抗する立場であったら、ここで時代の波にのまれ消え去ってしまっただろう。ブラジルのミュージシャンがポピュラーの世界ではなく、ジャズの世界とアダプトしたことで、ブラジルの音楽が世界に広がり、ジャズの世界もロックに先進性を明け渡し追いやられながらも、その後も存続するきっかけのひとつとしての出会いがここにあった。

Getz/Gilberto#2

1 Grandfather's Waltz(G. Lees, L. Färnlöf)
2 Tonight I Shall Sleep With A Smile On My Face(D. Ellington, M. Gordon, M. Ellington)
3 Stan's Blues(S. Getz)
4 Here's That Rainy Day(J. Van Heusen And J. Burke)   
※1-4Stan Getz Quartet
5 Samba Da Minha Terra(D. Caymmi)
6 Rosa Morena(D. Caymmi)
7 Um Abraço No Bonfa(J. Gilberto)
8 Bim Bom(J. Gilberto)
9 Meditation(A. C. Jobim, N. Mendonça, N. Gimbel)
10 O Pato(J. Silva, J. Hendricks, N. Teixeira)
Bonus Tracks
11 It Might As Well Be Spring(Rodgers & Hammerstein)
12 Only Trust Your Heart(B. Carter, S. Cahn)
※11-12Astrud Gilberto&Stan Getz Quartet
13 Corvacado (Quiet Nights Of Quiet Stars)
(A. C. Jobim, G. Lees)
14 Garota De Ipanema (The Girl From Ipanema)(A. C. Jobim, N. Gimbel, V. De Moraes)
15 Voce E Eu(C. Lyra, V. De Moraes)

・アメリカ生活の中で触れていたサンバ

1966年にジョアンとミウーシャの間にベベウが生まれ、1969年までアメリカ生活が続く。この生活の中でジョアンはさらに古いサンバへと傾倒していくことになる。この頃に演奏していたというPica pauは2006年の来日で演奏されていたマルシャ。スタジオ録音は残っていないが先日発売されたブルーレイに収録されている。


同時代の音楽に触れることもあったが決して多くはなく、この頃シヂネイ・ミレールのアルバムは好んで聴いていたものの、やはりジョアンが常に触れていたのはジョビンの作品だったのは間違いない。


※2020/3/7追記

この時期のジョアンの音源が先日発掘され公開されている。

シヂネイ・ミレールのQuem Dera、アリ・バホーゾのPica Pau、トム・ジョビンのFotografiaの三曲が公開されていて、まさにこの回で紹介した楽曲とマッチングする。曲を体得する前のぎこちなさが残る演奏に、この頃のジョアンの試行錯誤する様子がうかがえる。

・60年代中盤以降のブラジル国内の音楽情勢

60年代中頃のブラジル音楽界ではポスト・ボサノーヴァ世代でありMPBのミュージシャンの橋渡しをしていたエリス・レジーナと、イェイェイェやブラジルのロックシーンであったジョーヴェン・グアルダのホベルト・カルロスらが争っていたが、ジョアンはそれらにはまったく興味を示さなかった。

この頃、ブラジル国内では軍事政権が勃発し、検閲が始まることで表現への制限がかけられる事になる。カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、マリア・ベターニア、ガル・コスタらによるトロピカリア運動が始まり、ジョアンは彼らを擁護するようになる。しかし、軍事政権が強まるにつれて、カエターノとジルはイギリスへと亡命する。後にジョアンはカエターノをブラジルへ引き戻すきっかけを作るがこれはまだ少し先の話。


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