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昭和金融恐慌の振り返り

 動画リニューアル予定のためYouTubeリンク外しています。記事はそのまま残しておきます。今後ともよろしくお願いいたします(TeamモハP)。


 日本の昭和金融恐慌について解説します。日本において過去の金融危機を振り返るとき、1990年代の北海道拓殖銀行や山一證券の破綻の話はよく耳にしますが、それより前の金融危機についてあまり語られることがありません。

歴史の重要性

 ここ30年に起こったことについては現役世代でも覚えている人が多いため、すぐに思い出して比較されやすいです。しかし、それより前に怒ったこととなると、経験した人があまりいないため、学校教育でも教えられません。そのため、振り返られる機会が少なく、あまり議論にならないと思います。
 私は歴史を振り返ることは非常に重要だと考えています。個人的に、様々な歴史を調べています。マーケットでファンドマネージャーという仕事をしていると、これから起こることを予想する必要があります。社会の中には科学的に解明されていないことも多く、そうした時に、歴史においてはどうだったかというのが非常に多くの示唆を与えてくれます。

昭和金融恐慌

 日本の昭和金融恐慌について解説したいと思います。
 昭和金融恐慌というのは、1927年頃に起こった金融恐慌です。時代の流れを簡単に振り返りますと、1923年に関東大震災があり、その前までは非常に好景気でしたが、震災をきっかけに多くの企業が経営危機に陥りました。そうした企業にお金を貸していた銀行も経営危機が心配されるような状況になり、金融危機が心配される状況になっていました。

世界恐慌と昭和金融恐慌

 余談ですが、アメリカ発の世界恐慌が起こったのは1929年からです。この世界恐慌も日本に波及して散々なことになりました。今回解説する昭和金融恐慌は、世界恐慌が始まるよりも少し前の話です。戦前の日本がたくさんの危機に直面していたことを物語っています。

東京渡辺銀行の破綻

 関東大震災後の不況で多くの企業が経営危機に直面していました。そうした企業に融資をし、破綻する可能性があると言われていた銀行の一つが東京渡辺銀行でした。この銀行はもともと第二十七銀行として明治10年、1877年に設立された銀行です。国立銀行でしたが、江戸時代から江戸で地主としての地位を築いていた渡辺財閥が実質的に経営を行うことになりました。そして、財閥の名前をとって東京渡辺銀行という名前に変わりました。

銀行の経営問題

 渡辺財閥による経営がかなりずさんなものになっていました。国立銀行の名のもとに経営をしていたものの、渡辺財閥に関係するビジネスに多額の投融資をしていたと言われています。破綻直前においては、融資の7割が渡辺財閥関連のビジネスへのものだったとされています。詳細は、「昭和金融恐慌歴」という本に書かれています。
 不良債権も多く、1927年に至る前から、当時の金融当局である大蔵省も問題の処理にあたっていました。しかし、1927年3月14日、衆議院予算委員会で、当時の片岡大蔵大臣が東京渡辺銀行が破綻しましたと失言をしてしまいました。この時、実際にはまだ破綻していなかったのですが、この発言をきっかけに取り付け騒ぎが発生し、預金の流出を食い止めるためにその後営業を停止しました。しかし、もはや建て直すことができない状況と判断され、結局、破綻してしまいました。

銀行の破綻と現代の共通点

 この東京渡辺銀行の破綻は、実際に破綻していなかった銀行が金融当局の発言によって潰れたという意味で、後々まで語り継がれている破綻劇となりました。
 もともと経営状況が悪化していてバランスシートが傷んでいる状況の銀行を、結局、助けることができずに潰れてしまうというのは、今でも起こる可能性があります。

台湾銀行の破綻

 この時期もう一つ破綻したのが台湾銀行です。台湾銀行というのは、台湾が日本の統治下に置かれてから、日本政府主導で設立された銀行で、台湾において中央銀行としての役割も担っていた銀行でした。日本は、台湾の統治から台湾の開発を積極的に行っていったわけですが、そうした台湾におけるインフラの整備や企業活動を支えたのがこの台湾銀行でした。

鈴木商店と台湾銀行

 台湾におけるビジネスを積極的に手掛けていたのが、急成長中の新興企業である鈴木商店でした。鈴木商店は1874年に兵庫県で設立された会社で、当初は砂糖の取引などをしていました。しかし、その後、造船、海運、保険などにビジネスを拡大し、急成長を遂げました。当時、三菱財閥も新興企業の鈴木商店の急成長を恐れていたと言われています。
 この鈴木商店がかなり無茶な経営をしていたと言われています。そして、台湾でもたくさんのビジネスを手掛け、この鈴木商店に台湾銀行は多額の融資をしていたとされています。
 関東大震災以降の不況で1927年に鈴木商店が破綻すると、台湾銀行も経営危機に陥りました。同じ時期に東京渡辺銀行が破綻し、金融危機が懸念される状況に陥ると、台湾銀行は自力での再建が困難と判断されました。結局、政府による管理下に置かれ、政府主導で再建が行われることとなりました。

昭和金融恐慌と大蔵省の対応

 この昭和金融恐慌で、当時の金融当局である大蔵省は200億円の緊急資金供給を実施しました。この昭和金融恐慌について、原因は未熟な金融システムと経済危機に金融当局が正しく対処しなかったことだと言われています。
 当時と比べて今は金融規制も強化され、金融システムは強固になっていると言えますが、問題点には共通する部分もあるでしょう。

為替レートの歴史

 そして、1920年代の日本の歴史を振り返った時に皆様にお伝えしたい話があります。それはドル円の為替レートについてです。
 1920年頃のドル円の為替レートについて振り返りますと、1ドルは2.5円程度で取引されていました。もともとドル円は明治維新の後に1ドル1円からスタートしているのですが、その後明治維新後の明治政府の財政悪化で徐々に円の価値が下落し、西南戦争の戦費がかさんだため、1877年頃にかけて1ドル2円程度まで下落しました。

為替レートの変動

 その後、この1920年代以降の金融危機や世界恐慌でさらに下落し、1932年頃に1ドル5円程度まで下落しました。そして、第二次世界大戦が終わった1945年には1ドル15円程度まで下落し、その後戦後のハイパーインフレでさらに暴落し、1949年に1ドル360円に設定されました。
 1ドル360円というのは戦後にGHQが設定したものです。円周360度から360円になったという説がありますが、それは正しくありません。当時の日本とアメリカの購買力の差を計算して算出したと言われています。つまり、明治維新後に1ドル1円だった円の価値は、戦後に至るまでに360分の1まで価値が下落したということです。
 為替レートの歴史も振り返ると、過去にいかに苦しい状況を経験してきたかを考えさせられます。

通貨の暴落と現状の通貨価値
 歴史を振り返り、日本円も通貨の価値が暴落し、大変な時代があったということがお分かりいただけたと思います。欧米の通貨はドルとの交換レートが桁が近い数値になっていると思いますが、例えばユーロとドルの交換レートはほぼ1に近い数値ですし、ポンドとドルの交換は1.25ぐらいです。
 ですが、ドル円は1ドル150円台ということで、桁が2つ違います。これは、日本円が暴落した歴史を持っているということを示しています。このように、通貨の交換レートの桁が多い国のほとんどが、こうした通貨の暴落、経済危機に見舞われた経験を持っています。

日本円と韓国ウォンの通貨の歴史

ご参考

バブルの歴史
 人類が初めて経験したバブルが17世紀前半に発生したチューリップバブルであることはよく知られています。
 しかし、このチューリップバブルが発生した時代の少し後、18世紀のイギリスで発生した南海泡沫事件という事件について知っている人は意外と少ないかもしれません。

バブルの起源、南海泡沫事件とは

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