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共生

 精神科の待合室にあるウォーターサーバーは、紙コップに水を注ぐたびゴボッと大きな立てる。私はいつも誰かが驚いて恐怖を感じてしまわないか、場所が場所だけに心配になる。
実際誰もこっちなんか見ちゃいない。でも、見ないようにしているだけで、本当は動悸で苦しんでいるのかもしれない。
そう思いつつも薬の副作用である口渇には耐えられない。

 そんな気遣いも、徐々に虚しくなっていった。
受付のスタッフに対して強い口調の人もいれば、気持ち悪くなる香水の匂いをプンプンさせている人もいて、うるさい子供を連れてくる人もいる。誰がどれだけ何を苦手かなんて知ったこっちゃないのだ。

「すみません、子供の声の周波数で鼓膜がボコボコ鳴るし、女児がいるというだけで私の別人格が危害を加えたがるので連れてこないでくれますか?」

私が直接そう言うわけにもいかない。だから、自衛のためにも私が出ていくしかない。外の階段で順番を待つしかない。
精神科に行って悪化してどうする。

 私の中には、様々な人格が共生している。それぞれの特徴も違えばトリガーも役割も違う。

 様々な人格は、体の持ち主である本来の人格、つまり基本人格を守るために発生する。幼少期、基本人格では耐えられないほどの苦痛を代わりに引き受けるために現れるのが始まりだ。
現れるというよりは、作り出されてしまうと言ったほうが正しいかもしれない。幼いゆえにまだ自我が完成していない状態で、許容範囲を超えたダメージを受けると、自分というものがバラバラになる。そして、何かあるたび対応可能な人格が生まれてしまう。
防衛反応、生きるためのスキルなのだ。

異性、子供、復讐心しか持たない者、怒りしか持たない者、極端に攻撃的な者、社交的な者、性的な接触を好む者、痛みを感じない者、暴言を無視できる者、表に出ない者、世話役やまとめ役までいる。


 私は幼い頃からずっと彼らと共生してきた。何よりも、この体の持ち主、基本人格は私だと認識して生きてきた。
だが、最近はその認識を疑い始めている。人格解離のシステムを勉強すればするほど、妙な違和感が常に纏わり付くようになった。

ポジティブで、しっかり自分というものを持っている私を、様々な困難に耐え、自ら闘いの炎に飛び込むことも厭わない、精神的にも強く逞しい私を、誰が守る必要などあるだろうか?
むしろ私が基本人格とやらを守っている。そう考えたほうが納得できる。

時に幽体離脱のように浮遊したり、ブラックアウトの様な状態になったり、コントロール不能になったり、記憶が飛ぶ。
その間誰かが私を守っている?
だとしたら、何から守っているというのか。この私にも耐えられない物事が、私が知る以外にもまだあるというのか。

 担当カウンセラーは若い女性だ。地味な黒縁の眼鏡をかけているのだが、レンズの向こう側には大きな目が輝いている。
やたらとドキドキしてしまって目が合わせられないのは、私自身がバイセクシャルだからなのか、それとも私の中にいる男性人格の反応か。

40分間のカウンセリングでは、近状報告や解決したい問題について話し合う。真っ直ぐで真剣な眼差しでアドバイスしてくれる姿にグッと来る。落ち着いたトーンの声にも癒される。
見惚れてしまって話がほとんど頭に入らず、申し訳ない気持ちになるが、これは決して無意味な時間ではない。

 医師による診察は数分で終わる。人格がどうのこうのよりも、私自身の精神状態を安定させるために数種類の薬が処方される。
それらの薬は、私の意思とは無関係に突如起きる動悸、酷い睡眠麻痺や悪夢、テンションの激しいアップダウンを平らにするのに役立つ。
人格解離は、薬では治らない。

 私は、この世界では精神障害者だ。かれこれ20年以上通院している患者だ。それは紛れもない事実である。

だが、また別の世界では私が医者だ。
医師免許は無い。だからモグリと呼ばれてきた。
私には私の患者がいる。患者がいる限り、私は患者の元へ行かねばならない。
たとえそれがイリーガルでリスクの大きな行為であっても。

次の取引は1週間後だ。