「『育ちがいい人』だけが知っていること」という本を見てしまってマナーについて考えた
「『育ちがいい人』だけが知っていること」という本が、twitterでやや燃えていたのをやや覚えていた。
暑すぎてなにもかもがおぼろげである。
本屋で手に取ってパラパラ見てしまった。
お受験の親子のためのマナー講師をやっている著者が書いた、ということだった。
”婚活成功者続出!難関幼稚園、名門小学校合格率95%!「にじみでる育ちのよさ」と本物の品が身につくと話題のマナー講師が教える、話し方、食べ方、ふるまい、お付き合いの心得。 「育ちのいい人」にとっては当たり前なのに、多くの人が知らないマナー以前の常識250。真似すす(※原文ママ)だけで、今からでも育ちはよくなる!"
紹介文を引用してみた。
校正がザルなのはマナーにのっとっているのかしらね、という嫌みの一つも言いたくなる。
これだけで、カッチーン!ときたわけだが、私はなぜ瞬間的にカチンときたのだろう、と考えてみた。
たぶん、それがスタンダートって誰が決めたんだ、という気持ちの悪さだ。
怒りポイントはちょっとわかったけれど、それでは、マナーとは、作法とは、行儀がいいとはなんだろう。
育ちがいい、悪い、というジャッジの息苦しさ、清潔なタオルで口をふさがれるような気持の悪さはどこからくるのだろう。
ちなみに結論は全然出ない。
ひとりブレーンストーミングだ。
茶道の作法、とかだったら、これはこういう遊びなんだから守らないとつまらないじゃん、というのはわかる。
サッカーボールを手に持ちたい人は別の遊びをしてください、ということだ。
ハンコをつくときは上司の方へ少し傾ける、という謎ビジネスマナーがあるということを昨日知った。
なにそれこわい。
これは完全にオカルトの部類である。
私のような野良犬から見れば、よその部族の掟だ。
箸もマナーの宝庫だが、箸渡しをしない、というのはおそらく「穢れ」感だろうなあ、これもオカルト、とも思ったが、感染症の防止という合理的な側面も否めない。
箸は三手で、というあたりはどこから来たのだろう。
そもそも日本オリジナルなのだろうか。
風水のように、考えてみると本当はめっちゃ合理的なんだけど、発露がオカルト、というマナーもあるかも。
もし、いわゆる「育ちの悪い」子を見分けるための仕草チェックだとしたら、集団の同質性を担保したいという安全保障なのかもしれない。
例えば犯罪集団などの、構成員しか知りえない仕草、隠語、符牒みたいなものであるとすれば、わかりやすい。
マナーはあからさまな身体性の発露をおさえる仕組みでもあるな、とも思った。この辺で息切れした。
ともあれ、畳のヘリをふんではいけない、というジャンルの知識に関して棚卸しをしたことがなかったので、この本は腹が立ったが、脳内魔窟の発掘につながったので、よい機会だった。