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ルサンチマンの簡単な説明

Twitterでつぶやいてるときに、頻出するルサンチマンについて説明するのが面倒臭いので、簡単な説明を書いておきます。なんと2018年7月13日に書きかけて、ずっと放置していましたが。どうにも、繰り返し説明するのが面倒くさいので。諦めて完成させました。

なお当テキストは有料記事ですが、ほぼ3分の2が無料で読めます(合計10000文字ほど)。無料部分だけでも、そこそこためになる内容のはずです。つまらないと思ったらスルー推奨です。宗教とか思想とか歴史とか文化とか、興味がある人だけ、どうぞm(_ _)m 
なお自分はミッション系の渋谷ナンパ大学を卒業し、当時は必修のキリスト教概論はAA評価(優)をいただいていますが、神学科でも哲学科でもありませんので、ツギハギで雑な説明です。関心が湧いた人はちゃんとした学者の解説本を読みましょう。文末に推薦図書も置いておきます。

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①そもそもルサンチマンとは?

■ルサンチマンは18世紀デンマークの、実存主義思想家のセーレン・キルケゴールが提示した哲学の概念です。さらに、現代思想に大きな影響を与えたドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが著書『道徳の系譜』で再定義して以降、更に重要な言葉になりました。現代思想を読み解くキーワードになるほどに。

■フランス語で書くと ressentiment です。思想家で、詩人で、ついでに吉本ばなな女史のパパの吉本隆明氏がル・サンチマンと間違った表記したため、SEALs牛田くんもル-サンチマンなんて、わざわざ中黒ではなくダッシュを使って書いていましたけど。間違いです。ル・モンドじゃあるまいに。早稲田大学大学院まで進学した彼の、勉学の程度を感じさせます。

■ぶっちゃければ、ルサンチマンとは弱者が強者に対して持つ怨恨。ハッキリ言えば、妬み・嫉み・逆恨み。「疚(やま)しい良心」とも呼ばれます。この概念がなぜ重要なのかといえば、西欧文明に深く根ざしたキリスト教文化のベースに、ルサンチマンが多大な影響を与えているからです。

■いやいや民族宗教のユダヤ教は、よく知らんが選民思想とかなんか物騒なキーワードを耳にするけれど、キリスト教は隣人愛を説く世界宗教で、んなオドロオドロしい概念とは遠いだろ……と思う人も多いでしょう。そもそも宗教は道徳や慈悲を説くもんだし、と。しかし、宗教は耳障りの良い道徳とは異なります。

②宗教とは世界観=物語の提示

■そもそも「宗教とはなんぞや?」と問いたくなります。世界中にいろいろな宗教が存在します。辛い現実への鎮痛剤や、人間が生老病死の宿命から逃れ得ない存在であることへの処方箋であったり、あるいは日々を生き抜く心の糧であったり。その中でユダヤ教と、そこから派生したキリスト教は、ちょっと変わった世界観を生み出しました。

■それは「今の辛い現実は、最後に救われるための神が与えた試練である。我々は神に試されているのだ」という考え方。この宗教が生まれた(正確には強化された)のは、ユダヤ人の建国てたユダ王国が、新バビロニア王国のネブカドネザル2世に滅ぼされ、バビロン捕囚という奴隷状態であった時期が発端です。

■当初は、しばらくしたら故郷に帰れるだろうと楽観的に思っていたユダヤの民でしたが、バビロン捕囚は紀元前597年から始まり、紀元前537年の初め頃まで続きます。約60年もあれば、生まれたばかりの赤ん坊にも孫ができるぐらいの、長い長い期間です。二世や三世は当たり前、早ければ四世も。

■日本の在日外国人でも、二世になると母国語が喋れなくなる人は多いです。張本勲さんの場合は、母親がそもそも日本語を喋れなかったため、ネイティブに喋れますが。和田アキ子さんとか前田日明さんなど、二世ですがほとんどしゃべれません。財閥ロッテグループの重光兄弟は、韓国語が下手だとしばしば韓国で批判の対象になります。

③民族の同化と消滅の危機

■朝鮮学校とかは、いずれは半島に帰国することを前提に、民族の文化を教えるという建前で設立されましたが、ネイティブの韓国人に言わせると、そこで使われる朝鮮語は、地域ごとの発音や文法が混入したピジン英語のように、ネイティブには聞き取りづらいものに、既に変化しているそうです。そもそも、北朝鮮と韓国ですら、言葉にズレが生まれてるそうですし。

■住めば都とはよく言ったもので、人間というのは環境の変化を嫌いますが、同時に環境に馴染む生物でもあります。次第にバビロニア化する若い世代のユダヤ人に対して、一世には危機感が生まれます。文化も民族性も失われ、同化する。実際、スペインなどに戦国時代に渡った日本人は、完全に同化しています。文禄慶長の役で日本に連れてこられた李氏朝鮮時代の陶芸家も、同化しています。

■こういう状況の中、民族宗教としてのユダヤ教は再考され、再定義され、体系化されています。ユダヤ人が、ユダヤ人のアイデンティティを保つために。ヤハウェはたくさんいる神々の中にさらにユダヤ民族の神ではなく、この世界を創造した唯一絶対の神と定義されます。そして大きな世界観を持つ創生神話が、いろいろと形成されます。民族の物語=神話。

■でなければ、ユダヤ人とユダヤ民族は、バビロニアに同化し、100年も持たずに消え去っていたでしょう。逆に言えば、遠き故郷を放たれて夢に楽土を求めた流浪の民でありながら、遂には二千数百年の流浪の末にイスラエル建国に辿り着いたユダヤ民族の紐帯、精神的支柱が、民族の宗教=ユダヤ教だった訳です。

④物語が辛い人々のための物語

■本論の補助線になるお話を、少しだけしますね。「結末がわからない話を読むのが辛い」という、ストレス耐性の弱い人をSNS上で見かけます。それが映画であれ、小説であれ、漫画であれ、作品の中で主人公を襲う試練や困難は、つきものです。平穏無事な日常は、作品になりづらいですから、当然ですね。

■ところが、これがどうしても駄目だという人が、一定数います。しかしそういう人はどうも、試練それ自体が苦手というより、その試練の末にバッドエンドになるのが嫌なんだと言います。具体的には『ゴンぎつね』や『フランダースの犬』のような、せっかく我慢して試練パートを観たのに、救われない悲しい結末が耐えられない。

■ところが、そういう方々でも、ハッピーエンドの結末が分かりきった物語は、途中に辛い試練があっても楽しめるのです。ハッピーエンドの物語の試練は、最後の達成感を高めるためのスパイス、あるいは隠し味みたいなものなのでしょう。なので、ハッピーエンドと確認してから読み始めるんだとか。

■まるで、推理小説の犯人を聞いてから、読み始めるようなモノです。推理小説には倒叙物という、最初から犯人が提示される、『刑事コロンボ』のスタイルもありますが。要するにこういう人達は、ハッピーエンドしか受け容れられない。それが保証されないと〝物語のトンネル〟に耐えられない。これも平成不況で、現実が辛いことの反動でしょうか?

⑤ネタバレしている物語は安心

■でもこのハッピーエンドを先に知りたい心情は、自分も多少は理解できます。落語とか結末が分かりきってる噺を、何度も聞きたがる心理と同じですから。幼稚園生などのへの絵本の読み聞かせでも、結末がわかっている物語を何度も何度も聞きたがりますよね? あれと同じでしょう。『ぐりとぐら』とか。

■そういえば自分、幼稚園の頃に観たNHK人形劇の『山姥と牛方』がもう怖くて怖くて、教室から逃げ出した記憶があります。子供の頃見たアニメなどでも、主人公がついた嘘がばれそうになるシーンとか、こっちがドキドキして見ていられなかったり。ストレス耐性低ッ! なので、ハッピーエンドを求める心情も、少しは解るのです(c.v石川由依)。

■NHKの朝ドラでも『まれ』や『半分青い』のように、主人公が恋も仕事も迷走しまくった挙句に、結末がどうなるかよくわからない話は、視聴率も評価も上がりにくい傾向があるようです。それとは逆に、成功した実在の人物がモデルがいる作品は、ある種の安心感があります。

■古いところでは、ヤオハンの半田カツやダイエー中内功氏らがモデルとも噂される『おしん』や、ニッカウヰスキーの竹鶴正孝とリタ夫人の『マッサン』、安藤百福夫妻がモデルの『まんぷく』、草創期の女性アニメーター奥山玲子がモデルの『なつぞら』なども、その範疇でしょうか。自分も、これらの作品はかなり好きでした。

⑥ネタバレは安心感を呼ぶ

■それは『アオイホノオ』の主人公の焔クンが、どんなに現状に苦しみ、未来に絶望し、ままならない現実にのた打ち回っても、「でも、あんたはけっきょく島本和彦になるんだろ?」と、安心して読めるのも同じでしょう。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が好まれるのも、四十七士が我慢に我慢を重ねて、本懐を遂げるからこそ。

■高倉健さんのヤクザ映画も同じ。実はユダヤ教も、この作用を利用しています。最後の審判によってユダヤ人以外の異教徒が神罰を喰らって滅びる未来(終末)を夢想することによって、辛い現実にも耐えられる訳です。現在の試練は、神によってユダヤ民族の信仰心が試されているんだぞ、と。そう思えばがんばれる。

■グレイシー柔術のホリオン・グレイシー師範が、他流試合での時間無制限ルールに拘る理由として、こんな例を挙げておられました。人間は十日後に助けが必ず来ると知っていれば耐えられるが、いつ助けが来るか解らなければ、不安で三日も持たない……と。実に的確な例えですね。肉体より先に、精神が折れちゃう。

■何やら、ギリシャ神話のパンドラの匣に最後に残った希望みたいな話ですが。そういえば新谷かおる先生の名作『エリア88』で、パンドラの最大の罪は、希望を解き放ったことじゃないかという、逆説が語られていましたが。希望は毒にも薬にもなる、と。少なくとも、ユダヤ教はそうやって、民族の心の支えを作ることに成功します。

⑦神が命じるなら息子も殺す

■最後の審判も構造は、実はこれと同じです。未来の希望で現実を慰撫する。そのため旧約聖書には、ユダヤ人が神から信仰心を試されるエピソードが、繰り返し登場します。なにしろ信仰心を試され、神に自分の息子を生贄として捧げることを求められます。キリスト教信者はこのエピソードを『イサクの燔祭』と呼びますが。

■ある意味で究極の主体性放棄です。聖書の中では、アブラハムが息子のイサクを焼き殺して生贄に捧げようとする場面があります。もちろん寸前のところで、神はアブラハムの信仰心を天晴れと認め、息子の命は救われます。めでたしめでたし……とも言い切れま内容でして、これが。

■聖書研究者の異論ですが、この記述以降、イサクの登場がすっかり激減するので、古い聖書では実際に殺してしまったのではないか……という指摘があるとか。山本弘先生がトンデモ本のシリーズ『トンデモ世紀末の大暴露』の中で指摘していましたから、そういう説もあるのでしょう。知らんけど。

■実際に山本センセーの指摘が正しいかは、聖書の研究者でもないので解りません。知らんけど。イサクの燔祭は、犠牲の獣を捧げる儀式の由来説明という指摘もあります。知らんけど。しかし、イサクの燔祭自体は信仰心を試すとか云々以前に、それを要求するところに、一神教の荒ぶる本質が現れています。知らんけど。

⑧精神的勝利の本家本元

■故に、ユダヤ教の一派であるキリスト教(ここ大事)では「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」とか「カエサルの物はカエサルに」と言います。ままならない現実の暴力に屈服しても、金銭に恵まれない事実に出会っても、精神的に勝利することで、その屈辱を屈辱と受け止めない処世術を身につけます。

■日本のキリシタンは踏み絵を踏めませんでしたが、教義的には踏んでも内面が変わらないなら無問題。ぶっちゃけ一種の処世術、山本常朝の『葉隠聞書』と同じなのですけれど。それを宗教として巨大な体系に編み上げたのが、民族宗教としてのユダヤ教です。もっともこれ自体は、辛い現実に絶望して自殺しないための、心の安全弁としては有効に機能します。

■そして、世の中のままならない現実に打ちのめされているのは、なにもユダヤ人だけではありません。というか、土塊から生まれ土塊に還る儚き存在が、人間です。誰しもが弱者。誰もが虚しい存在。キリスト教はローマ帝国の弱者たる下層民へ、爆発的に浸透していって信者を増やし、遂にはローマの国教になります。

■しかし、ここで問題が起きます。弱者が弱者である内は良かったが、もしも強者になったなら? 最後の審判を下すのは神だが、自分自身の手で、自分を虐げた強者に、残酷な復讐をしたいという、ドス黒い想いが知らずに蓄積されてしまっていた……疚しい良心。これをルサンチマンと呼びます。ふう、ようやく辿り着いた。

⑨ナチスは右翼? それとも左翼?

■自分たちが少数派である内は、少数意見の尊重や多様性を口にしますが、多数派になれば、気に入らない少数派を圧殺しようとする構造があります。実際、キリスト教が力を持った中世、大衆は禁欲の中で抑圧されます。また、十字軍が聖地エルサレムを異教徒から奪還すべく、派遣されます。

■オランダの映画監督のポール・ヴァーホーヴェン監督とか、十字軍の悪行や残虐行為を描くことが、人生のテーマになっていますが。これは、味方であるはずの連合軍が、ナチスドイツの基地があったハーグを空爆した幼児体験が大きいようで。彼の作品には、正義を目的に始まった行動が、逸脱したり暴走する作品が多いですね。名匠で巨匠です。

■第4回十字軍遠征では、東方正教会もローマカトリック教会の敵として、十字軍に攻撃されています。何やら、日本のセクトに似てるでしょ? 左翼の敵は右翼ではなく、同じ左翼の別セクト───なんて言われますが。ナチスは右翼か左翼か、なんてバカバカしい議論をTwitter上ではよく見かけますけど、これも同じ。

■巨視的に見れば共産主義もナチスも、この善悪二項対立の世界観とか、自分たちは抑圧された弱者なので強者に残酷な復讐を倍返ししても許されるという免罪の構造は、実はいっしょです。両方ともユダヤ・キリスト教の鬼子と言えます。表面上は似ていなくても、血脈というか遺伝子は、脈々と受け継がれていて、ふとしたはずみに顔を見せる。

⑩ルーツはゾロアスター教

■閑話:この二項対立の世界観のアイデアの、原型は古代ペルシア発祥のゾロアスター教です。世界は善悪が対立し、最後は善が勝つという形で、ユダヤ教の最後の審判というアイデアになり、さらに一神教として体系化されます。ちなみにゾロアスター教は、フレディ・マーキュリーの家の宗教としても知られますが。

■フレディの家は、サーサーン朝ペルシアの滅亡(西暦651年)を機に、迫害を逃れてインドのグジャラート地方に移り住んだイランのゾロアスター教の子孫(パルーシーと呼ばれる)です。サーサーン朝ではゾロアスター教は国教で、知り合いのイラン人の話では、イラン国内にも今でも一定数のいるそうで。

■学校での宗教の時間は、イスラーム教徒ではないので席を外してたそうです。無神論に見える仏教と違い、ゾロアスター教はイスラーム教の教義と対立する部分がないので、宗教としては迫害も積極的に認めもしないが、許容されてるという扱いなんだそうです。一神教のルーツですから、当然っちゃあ当然ですね。

■このゾロアスター教が、西に行ってユダヤ教やキリスト教になり、東に行って大日如来になり密教になったという指摘もあります。拝火教とも呼ばれるゾロアスター教(アニメ『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のリイクニ・ノンデライコの宗教もゾロアスター教のリバースっぽいですが)の、意外な影響の巨大さに驚きます。それぐらい、画期的なアイデアだったのです。閑話休題

※以下は有料です。大した内容ではありませんので、興味がある方だけどうぞm(_ _)m

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