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海に連れてって。今すぐに

車は暗闇の前で震えながら停まった。

「ついたよ」

シフトレバーをパーキングに押し込みながら言うと、助手席で眠っていたユリは目をこすって短く息を吐き出した。たぶん笑ったのだと思う。暗くてよく見えなかった。車内のライトをつけると彼女は片目をつぶって眉を寄せた。

「まぶしい」

手足を伸ばしながら言う彼女からは、俺と同じシャンプーの匂いがする。

おとこ物の、清涼感の強いその匂いでさえ、ユリが纏うと妙な落ち着きをはらんで俺の肌をなでるように這う。

まだ開ききっていないユリの目尻に指を伸ばしかけて、俺は手を止めた。

こんな状況でさえ、彼女と肌をすり合わせたいと無意識に思っている自分に心底うんざりとした。着地点を失った手は空を切って、意味もなく自分の顎をさする。感情が揺れ動く俺の様子を、ユリは細い指からじっとのぞき見ているようだった。

「よく眠れた?」

訊くと、ユリは「寝てないよ」と小さく声を漏らした。

彼女はこうやって見え透いた嘘を沢山つく。

ばれている嘘をつみかさねて、いったい何ができあがるのか。半年間ユリと暮らしてきたけれど、結局は分からずじまいだった。

知ろうとすればするほど、分からなくなる。

そんな女だと理解したうえで、一緒に暮らそうと提案したのは俺の方だった。

「わたし必ずいなくなるよ?」

そう言って「それでもいい?」と可愛らしく首を傾げた彼女を今でもよく思い出すことができる。髪の毛はゆるく一つに結ばれていて、うなじにかいている汗におくれ毛がはり付いていた。大きめの黄色のキャミソールは彼女の動きに合わせて愉快そうに揺れる。描かれていた眉毛は暑さで取れかけ、いつもより顔立ちが幼く見えた。そして、俺をとらえる瞳は吸い込まれそうになるほどに黒い。

夏の公園の、街灯の真下でのことだった。

小さな虫たちが光に群がって、俺の足元に星くずみたいな影を作ってはせわしなく揺れていた。

ユリとは、俺が近所の居酒屋で友達の代わりに少しだけバイトをした時に知り合った。彼女はその店のトイレでひどく酔いつぶれていて、介抱する中で同じ大学だということが分かった。

それからは大学で顔を合わせるたびに挨拶をするようになり、お互い一人で行動するのが好きだった俺とユリは、気がついたら自然と親しくなっていた。

あの頃、ユリはもうほとんど俺の部屋に住み着いていて、一緒に居るのが当たり前だった。不思議とお互いに「付き合おう」とも「好き」とも「愛してる」とも言ったことがなかった。わざわざ口に出して言わなくとも、ふたりで居ると深い海の底にいるように落ち着いた。それだけで十分に満たされていたし、俺は疑問も持たずに安心しきった気持ちでいた。

だからあの日「一緒に住もう」と言ったのは、特に深い意味のあることではなかった。

ふとした思いつきで、なんとなく口から出ていた。いつまでも続くと思っていた日常の延長線。たわいもない会話。その一部として。

それなのに、彼女は「いなくなる」と言ったのだ。俺に選ばせるように「それでもいい?」と付け加えるのを忘れずに。

あの時の俺はユリのその言葉をうまく処理することができなかった。正直に言えば今でもよく分かってはいない。

けれど、それでも

「いいよ」

と返事をしてしまったのは、ただどうしようもなくユリと繋がっていたかったからで。「いなくなる」という理由を深く聞けなかったのは、純粋に怖かったからだ。

それから俺とユリの同居生活が始まった。

「いつかいなくなる女」と「それを了承している男」それはとてつもなく奇妙なもので、常にやるせなさが付きまとった。未来がないから、展開性のないふたり。それでも今日まで一緒に暮らしてこれたのは、お互いに引き寄せあうような何かを持っていたからなのかもしれない。

それが精神的ものなのか、肉体的ものなのか。俺にはもう一緒くたになってしまっていてよく分からなかった。

ユリが居なくなる日のことを考えて、とにかくユリを求めたこともあった。深く、強く、ただ一つになることしか考えられなくて、彼女を食べてしまいたいとさえ思った。全てを終えて、俺とユリの身体がくたりと馴染みあっても、近い未来に訪れるであろう不安は消えることなく、俺に重くのしかかる。

彼女は俺の戸惑いや、やるせなさ、寂しさ、その全てを知ってるようにも、知らないようにも、知っててわざと気づいていない振りをしているようにもみえる眼差しを持って、いつだってただ俺のことを抱きしめた。

その間もどんどんふたりの生活は続いてゆく。

トイレットペーパーがなくなりそうだとか、お風呂場にカビが生えていただとか、干していた下着が飛んでいったとか。彼女が消し忘れた電気。部屋の隅で丸くなっている靴下。洗面台に張り付いている長い髪。なんど注意してもソファで眠ってしまうユリにかけてあげる毛布。化粧ポーチの転がる音。

どうしようもなく積み重なってゆく暮らしの澱。

俺はそんな生活の一部をむさぼるように思い出していた。

「海に連れてって。今すぐに」

さっきユリにそう言われたとき、思わず耳を疑った。俺もユリもすっかり眠る準備を終わらせていた。もう意識は完全に明日へと向けられていて、あとは寝るだけの状態だった。

「今から?もう夜だよ。どうしたの?」

訊ねてもユリは何も言わず、俺の胸に頭をぐりぐりと押し付けてくる。駄々をこねる子供のようだった。

ユリは気ままでつかみどころのない女だけれど、俺の気を引くために困らせるようなことを言ったことは一度もなかった。彼女は嵐の前の空のような、中途半端な明るさと暗さが混ざりあう不安定さを持っていた。それなのに他人にはどこか頼りきらず、一人で生きていける身軽さと、澄んだ孤独を兼ね備えていた。

ユリが俺にわがままを言うのは初めてで、そしてこれが最後なのだろうと思った。

「海に連れてって。今すぐに」

彼女からは放たれたこの言葉は、ふたりにしか理解できない綺麗な別れの言葉のように思えた。

「海こわいね」

ユリはシートベルトを外しながら言った。視線は外に向けられていて、その後を追うようにして俺も顔を上げる。辺りには何もなかった。こんな真冬の夜の海にわざわざやってくる人なんて俺たちの他には居ないだろう。海ですら闇に溶け込んで、その境界がおぼろげだった。月の光を反射させる水面だけが海の存在を唯一証明していた。

「外に出てみよう」

エンジンを切って、俺とユリは車から降りた。

外の風は冷たく、暖房で鈍っていた肌に容赦なく突き刺さる。皮膚がこわばり、自然と表情が険しくなった。波の音だけが穏やかだった。

ながいあいだ立ち尽くすように並んで、じっと海を眺めた。お互い口を開かなかった。白い息が繰り返すように風に流され、消えるのを惜しむように尾を引いては闇に溶けた。

「怒っているでしょう?」

静寂に言葉を放り込んだのはユリの方だった。

「少しね」

ぶっきらぼうに俺は言った。ほんとうは自分が怒っているのかすらよく分かっていなかった。ただ気の抜けるような、死んだような落ち着きが身体中を巡っていた。

「今日はわがままを聞いてくれてありがとう」

ユリはゆっくりと頭を下げた。それに答えるかわりに彼女の頭をなでる。

「最後に思い出が欲しかったの」

頭を上げず、彼女はたしかに最後と言った。

最後。そうか、やっぱり最後なのか。

「いなくなるんだね」

そう言うと、ユリは揺れるように微かに頷いた。

「いつ部屋を出るの?」と訊くと、彼女は短く「あした」と言った。

あまりの唐突さに言葉を詰まらせると、そのまに滑り込むようにしてユリが言葉を続けた。

「ほんとうは黙って出ていこうと思ってた。一緒に暮らすことになった時から決めてたの。でも、もう眠ろうと思ったとたんに何か残したいって思っちゃって」

「だから海に?」

「うん。べつに海が特別好きっていう訳じゃないけど、思い出にふさわしい場所なんて他に知らないから」

なにもかも飲み込んでしまいそうな夜の海。暗闇がぽっかりと口を開けて、世界は完全にふたりだけだった。

今まさに俺とユリはお互いがお互いを、必死に思い出にしようとしている最中だった。

部屋を出てどこへゆくの?

と、口を開きかけて、やめた。

この半年のあいだ聞けなかったことを最後に聞いたところでもうどうにもならないのだ。

しばらく見つめ合い。どこか懐かしむように抱き合った。コートの中にユリの体温がこもっていて、俺の体温と一つになり、とても暖かかった。

帰り道、ユリは眠ることなくずっと起きていた。言葉を交わし、静かに笑った。少しだけ泣いたりもした。でも車内はなぜかすがすがしくて、ふたりで居る時いつも付きまとっていたやるせなさがその時だけは綺麗に姿を消していた。

そして朝起きるとユリは本当に居なくなっていて、なんだかユリにまつわる全てのことが俺の見ていた夢なのではないかと思えて仕方がなかった。でも髪に沁みついている潮の匂いが、つくりたての思い出を蘇らせた。部屋の中はまだ、むせ返るほどユリで溢れている。

半年。たった半年だけれど、俺とユリは生きるということを共有していた。

そしてまたこの部屋で俺は生活を重ねてゆく。

その単調さの中で、ユリと過ごした日々たちを、夜の海の思い出を、愛おしく思える日がいつか来るように願いながら。

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