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適応障害〜休職中のあれこれ③〜

前回の続き

2022年7月

適応障害の診断を受けて丸々2ヶ月以上が経過した。

日々の生活は変わらず寝たままが多く、時々コンビニやスーパーに買い物に行くなどはあったが、今思えばかなり無理していたようにも思える。

今もだが、わたしが外出する時に感じることは、

知り合いに会うかもしれないことへの恐怖心

がいつもまとわりつく。
しかも自分が教師という職業をやってきたので、
生徒に出くわしてしまうことを1番恐れている。
残念ながら学校の近くに戸建てを建てたこともあり、最寄駅は生徒たちがわんさかいる。もちろん同僚の先生たちも多く利用している。
通学、帰宅時間帯は絶対に近寄れない。

適応障害になり休職してからというもの、外出する時は必ず伊達メガネに帽子にマスクである。


さて、前回の記事で6月に大学の友人の結婚式の日に、iPhoneを粉々にした挙句、妻に大迷惑をかけてしまったわたしだったが、
すぐ後に母親から1通のメールが届く。

「しばらく実家で過ごしたら」

という提案だった。
一緒にいても妻にも迷惑かけてしまう自分をどうすれば良いかも悩んでいたし、ちょうど7月上旬に今度は身長が2m近くある小学生からの幼馴染の結婚式に出席予定だったので、その提案に乗ってみようと思い、期限を決めずに7月上旬に帰省した。


ここで、わたしの両親の話。

父は、普通の地元企業のサラリーマンで、真面目で本を読むことと、日曜大工および家庭菜園が趣味の温厚な人物である。
いつも冷静で、賢いが、身体を動かすのは苦手で、父と一緒に運動したりした記憶はほとんどない。典型的な運動音痴だと思う。

母は、父とは正反対で、絵に描いたような体育会系。テニスの国体選手も経験するようなゴリゴリのスポーツウーマンである。

時代もあるとは思うが、幼いころは父は仕事に出ていたため、ゴリゴリ体育会系の母親に育てられた。

さて話を戻して帰省した時の話。

実家に帰ると、父母の生活リズムに合わせて食事をとることになったので、かなり規則的な生活リズムへと変化した。
ただし、朝はさすがに起きるのがきつかったので、2人より遅めに起きて朝食を食べていた。

1日3食食べ、風呂に入り、早めに寝るといういかにも田舎のおじいさんおばあさんの時間帯で過ごすことに戸惑った。
なにせこの時もまだ不眠や金縛りは続いており、夜中に叫んで起きたこともあるし。

ただ、母親は昔から荒療治タイプの人間なので、わたしをなるべく朝早く起こそうとし、風呂洗いをさせ、皿洗いをさせ、散歩をさせた。

とりあえず断る理由はないと思っていたわたしは言われるがままに実行していたが、さすがに朝起きるのはきつく、自分のペースでやれることをやろうと思っていた。

また、散歩も次第に距離を伸ばしていき、2週間経つころには最長15キロ近く歩くようになっていた。

この時点で母親の荒療治は成功していたのかもしれない。

ある日、
「明日朝7時から藻岩山行くけどあんたも一緒に行くかい」
と誘われた。

藻岩山はわたしの地元のいわゆる里山で、幼い頃何度も登ったこともある、ホームマウンテン。

なので体力的には問題ないと思っていたが、朝起きられるかどうかというのと、気分が乗るかどうかが心配だったので、即答出来ずにいた。

翌朝、というか夜中に金縛りから目が覚めたところで、一念発起、このまま起き続けて山登りに行こうと決心。

これが転機となった。

久々に登るホームマウンテンは子どもの頃より厳しく、険しい山に感じた。もちろん、体力がなかったのもあると思うが、すいすい登っていく母親(とっくに還暦を過ぎている)に置いていかれる自分に驚いた。

ただ、普通に散歩している時は、ぐるぐる思考が頭を巡り、自然に涙が出てくるようなこともありったが、
久々に山を登っている時は、ただ登る行為自体に集中し、緑を眺め、良い空気を吸い、自分の身体の疲れと闘うことに集中できていたような気がする。

ホームタウンを山頂から眺めた時、改めて自分の小ささを実感した。

これをきっかけに、わたしは登山にハマることになる。

しかも、わたしはこの登山の帰りに、中古の自転車屋に行き、ロードバイクを購入、その後数週間ほどの地元生活でほぼ毎日散歩の代わりにサイクリングをすることとなる。


今日はここまで。

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