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記憶の中にだけある味

 神吉拓郎の傑作選2を読んでいたら、美味しいごはんの話の中に祖母が作ってくれたご飯のことを書いたものがあった。こどもの頃はハイカラなものが好きだったけど、年をとって思い出されるのは祖母が作ってくれた五目すしだった、というようなお話。

 それは確かにそうなのかもしれない。自分の中で思い出されるのは、祖母が作ってくれた赤飯の味。遊びに行くとなると、前の日から小豆を煮て手間も時間もかけて用意してくれていた赤飯は塩味が効いていて、ごま塩をかけなくてもおいしい。気がつけば好物になっていたのだけれど、今となっては祖母もなくなり、記憶の中だけにある味になってしまった。

 小豆つながりで思い出すのは、母が作ってくれたお汁粉(ぜんざい)の味だ。これも祖母の赤飯と同じく小豆をことこと煮ていたように思う。豆の触感が残るお汁粉で、ほろほろの豆が舌先で崩れながら、甘みが口中に広がる。子供のころはこのお汁粉が好きだったが、自ら家庭を持ち、親になった今、とんと食べていないことを思い出した。これもまたあっという間に記憶の中だけにある味になってしまうのかもしれない。久しぶりに会った時、また今度食べたいな、と伝えた。なんなら作り方を教えて欲しいとも。

 自分でも作ってみたい。同じものを再現できなくても、いつかこどもの記憶に残る味になるかもしれない。そんなことを考えていたのかもしれない。ということは、自分は何か、こどもの記憶に残りたい、と思っているということなのか。自分のことは自分が一番よくわからないな、と思いながらお茶を啜った。

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