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#04 われら骨盤ニュータイプ (茂木秀之)

身体はなくなったのか

「身体の時代であります。」
野口整体の継承者である片山洋次郎は、『整体から見る気と身体』文庫版をこの一文で始めている。

養老孟司は、現代人は身体がなく、脳だけになっているという趣旨のことを繰り返し語っている。これはよく知られており、身体がないとか身体感覚がないという言説はよく見られるようになった。しかし片山が見ている身体は少し様子が違うようである。『整体から見る気と身体』の原著は1989年に書かれた。ここから続く90年代、私たちの身体に何が起きていたのだろう。

サイボーグ再登場

1990年代の前半、サイボーグ的な身体観が盛り上がりを見せたことがある。これはいま振り返ると少々奇妙に思える。サイボーグはこの時代よりもずいぶん前にSF作品の中で想像され、過去のものになったイメージではなかっただろうか。

まだ雑誌が元気だったこの時代を象徴する『STUDIO VOICE』(以下SV)という月刊誌がある。洗練された切り口でありとあらゆるカルチャーを紹介する総合誌であり、読者はSVが取り上げるものなら価値があると思って読んでいたとも言えるし、題材が何であろうと関係なくSV的な切り口で書かれたテキストならすべておもしろいと思っていたとも言えるだろう。このような存在は今では考えられない。

そのSVの92年4月号の特集は「ニュータイプ誕生」。進化したテクノロジーによって身体は機械化され、生命観の変容が迫られるだろう、といったことを、当時の気鋭の論者たちが議論している。そして人間の意識にはこれまでにない変化がもたらされるだろう、『機動戦士ガンダム』で描かれた「ニュータイプ」のように、と。

95年公開の押井守監督によるアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』では、機械化された身体と、脳と情報ネットワークを接続することで情報空間を自在に動き回る意識が描かれている。この作品は世界的に評価された。

この頃なぜこのような身体観が提示され、世界中で受容されたのだろうか。これを理解するにはパーソナルコンピュータとインターネットの背景にある思想を知るといい。95年はWindows95が発売され、コンピュータとインターネットが一般家庭に普及し始めた年である。

パーソナルコンピュータという「思想」

パーソナルコンピュータという「思想」はアメリカ西海岸で生まれた。1950年代までコンピュータというものは、巨大で複雑で、一握りの者だけに扱うことができ、社会や組織を管理、統御するために使われるものだと考えられていた。
 
60年代、西海岸でカウンターカルチャーと呼ばれる一連の思想運動が巻き起こる。人々は近代的自我が精神を拘束していると考えはじめ、そこからの解放を模索した。ここでその方途として、禅をはじめとした東洋思想が「発見」される。
 
一方、コンピュータに関わる技術者の中に、それまでのコンピュータ像に異を唱える者が現れはじめる。彼らは、コンピュータは個人で所有すべきものであり、特定の仕事をこなすための道具ではなく、扱う人間の能力を拡張するものであると考えた。GUI(※1)やマウスを発明したダグラス・エンゲルバートが設立した研究所はARC=Augmentaion(増大、増強)Reserch Centerという。この周辺から、現在のパーソナルコンピュータとインターネットを構成する概念と技術的アイデアのほぼ全てが生まれる(スティーブジョブズやビルゲイツが登場するのはすべてが出揃った後である)。この新しいコンピュータ観を持つ人々はハッカーと呼ばれた。彼らの思想はカウンターカルチャーと共鳴し、研究所では瞑想やエンカウンターグループ(※2)が行われ、LSDなどのドラッグが使われた。


(※1)GUI:GraphIcal User Interface。アイコンやウインドウなどを使った視覚的なインターフェイス(操作環境)。それ以前の黒い画面に白い文字でコマンドを打ち込んで操作するものはCUI=Caracter User Inrerface。

(※2)エンカウンターグループ:アメリカの心理学者カール・ロジャーズが創始した、心理的成長を目的としたグループワーク。


サイバーパンクとその後の現実

アイデアは出揃ったものの、実際にパーソナルコンピュータとインターネットが実用レベルに達したのは、およそ30年後の90年代である。その時を待つあいだ、漸進的に進むテクノロジーを横目に、様々な想像力が現れた。
  1984年、SF作家のウィリアム・ギブスンが『ニューロマンサー』を発表する。そこでギブスンはサイボーグの身体と、情報ネットワークの中を動き回る意識を描き、その意識が動き回る空間を「サイバースペース」と呼んだ。ここから始まる彼の一連の作品と、影響を受けた他の作家の作品群は「サイバーパンク」と呼ばれ、一つのジャンルを形成する。『攻殻機動隊』もその直系だ。(※3)

サイボーグの身体と、身体の拘束から解き放たれてサイバースペースの中で真の自由を獲得する精神。このイメージは、静かに夢の具現化へと歩を進めていたハッカーたちに好意的に迎えられ、埒外にいた知識人・文化人も巻き込んでひとつの潮流となっていく。


(※3)『ニューロマンサー』の舞台は「千葉シティ」。よく比較される1982年の映画『ブレードランナー』の舞台は香港。サイバーパンクの作品はこれも踏襲して、アジア風の都市が舞台となっていることが多い。
これは新しいものの不気味さとそれゆえの魅力を東洋に象徴させるオリエンタリズム的な態度だという解釈から「テクノ・オリエンタリズム」と言われたりした。
日本の作品である『攻殻機動隊』もまた、アジアの諸都市のイメージをごった煮にしたような近未来の日本の都市を舞台にしており、この作品がまた西洋から「発見」されて…と事態はたいへんややこしいが、このようなことがあらゆるサブカルチャーで起きていたのだと思う。それがあの、濃かった90年代サブカルチャーの魅力の源泉のひとつだったのかもしれない。


そして90年代、パーソナルコンピュータとインターネットが一般家庭に普及する準備が整うと、潜在していた期待が爆発する。日本では前述のとおり『STUDIO VOICE』が特集を組んだ。ハッカーやカウンターカルチャーの血を引く者たちだけではなく、文化の行方に敏感な人たちは皆それを語りたがる状況だったのだろう。

それで、何が起こったか?

普及しはじめた頃のインターネットには、ハッカーたちが思い描いたサイバースペースの理想が、ある程度あったように思う。

共通の関心を持った人たちがWEBやニュースグループを介して集まり、物理的距離に阻まれることなく密度の高いコミュニケーションを行う。そこではマスメディアが扱わない反体制的な話題や違法性のあることまで、どんな情報でも飛び交った。今までにない自由を得たと感じ、インターネットの発展とともに精神が解放されていくようなイメージを持った人も少なくなかったかもしれない。

それから20余年。自由は、解放は、どこかにあるだろうか?誰もがパーソナルコンピュータやスマートフォンを持ち、インターネットに接続しない日はない。それで私たち毎日、GoogleのサービスやFacebookにすすんでプライバシーを提供し、世界的な人間管理への協力を惜しまない。メタバースなるサービスは映画『マトリックス』さながらである。物理的空間ではどこまでも貧しくなり、管理の行き届いたサイバースペースで供給されるなんとなく豊かそうなイメージを消費して人々が生きていくとしたら、サイバースペースは見事にディストピアへと反転する。

高度情報化社会のサイボーグ?

ところで、身体はサイボーグになったか?なっていない、というのが普通の答えだろう(※4)。だが、先に触れた片山洋次郎は、90年代に入ると私たちの身体にかつてない変化が起きたと言う。もちろんそれはサイボーグ化ではないが、ではどのような変化だったのか。


(※4)普通じゃない答えとして、押井守の『身体のリアル』における発言がある。押井は『攻殻機動隊』の実質的続編『イノセンス』(2003年公開)の制作中に「もしかしたら自分というものもとっくの昔にサイボーグになってたんじゃないか」と考え始めたという。「ようするに外部記憶装置もあれば並列化もしてるし、自分の固有性の根拠ってどこにあるんだろうというさ。」
この本の対談相手は押井の実姉である舞踏家の最上和子。最上はこんなことを言う。「人間は花になれるんだということを証したいんですよね。証明したい。人体という枠を離れて花になったり風になったりできるんだって。人間の内部ってこんなに大きくて自由なんだよというような、なんかそういうことなんですよ。みんな人体というこの枠を信じすぎてるというか。内臓があって、目鼻があって、手足があってという人体にとらわれすぎてるから、内部に入ると無限の身体があるから、その無限が外に顔を出したところを見せたいんですよね。」
身体感覚が失われ、その内部を感じることができなくなっていくほどに、人の意識は人体の表面的な枠にとらわれるようになったのだろう。この身体は目的を果たすための機能だけを持った機械的身体だ。
後に触れるイヴァン・イリイチは晩年のインタビュー集『生きる希望』でこのように言っている。
「経済を資本主義的に組織するイデオロギーは、俗にいう産業革命に数世紀先行していた。マンフォードによれば、ヨーロッパはベーコン主義的な前提にもとづいて、時間を節約し、空間を縮小し、動力を増大させ、商品をふやし、固有の規範を撤廃し、生身の身体的器官を、それをかりたて、それが遂行する単一の機能のみを拡大する機械に置き換えはじめた。」


95年にWindows95が発売され、パーソナルコンピュータとインターネットの一般家庭への普及が始まった。携帯電話やPHSを学生が持つことも珍しくなくなってきた。高度情報化社会の幕開けだ。

この年、オウム真理教による無差別殺人事件、いわゆる地下鉄サリン事件が起きた。このとき片山は『オウムと身体』という本を書いている。ここからしばらくこの本に沿って話を進める。

オウムの時代、生まれ変わる身体

片山によると、まだインターネット以前と言えるこの頃、私たちの身体はすでに過剰な情報の刺激に疲れ切って限界に達しつつあった。

人の身体は外部環境からの情報(今日言うところの「情報」に限らず、物理的刺激や、微生物やウイルスの侵入なども含む)に対して、まず胸椎5番という、胸の真ん中の奥にある背骨が反応する。情報を受けると緊張し、しばらくするとゆるむ。ところが現代のようなスピードで次々と情報がやってくると反応が追いつかず、やがて硬直してしまう。

この胸椎5番は免疫活動の中心でもあり、ここが固まってしまうことがアレルギーなどの免疫系疾患の原因であると片山は考えている。

このようにして胸が固まってしまうと、過換気症(過呼吸症)的な状態になる。発作にまでは至らなくても、過換気状態になると理由もなく不安になったりイライラしたり、いつも何かに追われているような感覚になったりする。

どうすれば過換気状態から抜け出すことができるのか。一つの方法は、緊張・興奮状態をさらに高めて突き抜けてしまうことだ。これを実行したのがオウム真理教だった。

オウムの修行は、ヨーガなどの修行から取り入れている。普通修行というのは、どんな宗教や技法でも、エネルギーを集中させるものと発散させるものを組み合わせて行うのだが、オウムは集中系のものばかりを選び出していた。

教祖である麻原彰晃が信者の眉間に指を当てて「覚醒」させる「シャクティーパット」という行為があった。このとき信者は何らかの神秘体験に至り、覚醒した実感を得る。

頭にエネルギーを集中させて眉間から一気に発散すると、幻覚や夢を見やすい。だからシャクティーパットによって神秘体験のようなものに至るのは不思議なことではないと片山は言う。

もともと過換気状態である現代人は常に興奮状態にあり、これは「夢うつつ」の状態、トランス状態に近い。いわば準備が整っているわけなので、ここから神秘体験に導くことはそう難しくない。麻原はこれを感覚的に理解していたのだと考えられる。

このエネルギー集中へと突き抜けるやり方は、一時的に過換気から脱することはできるが、異常な集中と発散を繰り返しているとやがて身体が耐えられなくなる。ではどうすればいいのか。

もう一つの方法は「過敏体質」になることだと片山は言う。

普通、情報に対して胸椎5番が反応してから、その反応が収まるまでは時間がかかる。ところが過敏体質の人は、情報がやってくると素早く反応するが、瞬時にその反応を消してしまう。

集中した途端に発散している。過換気状態にはなるがすぐに解除してしまう。反応とリセットを高速で繰り返す、そのようなあり方が過敏体質だ。

片山が整体の現場で人々の身体を観察していると、90年代に入ってから実際にそのような反応をしている人が増えてきたのだという。

過敏体質の人は、意識の状態としては「今ここ」に対する感覚が非常に強い。反対に過去や未来の感覚は薄く、遠い未来の目標とかその達成といったことに執着することがない。だから前世代の人々の目には、刹那的で冷めているというふうに映る。

「今ここ」にフォーカスする意識。ハッカーたちと共にあったカウンターカルチャーはかつて、近代の産物である直線的な時間軸から脱して真実を知覚しようと、「Be Here Now」と叫んだ。30年の後、その問題意識とは無関係に、情報環境へ身体が適応した結果として、Be Here Now的な意識の持ち主が大量に現れはじめたのだった。

情報に直接対処する胸椎5番の反応を見てきたが、並行してさらに興味深い変化が起こっていたという。その現場は骨盤である。

骨盤は全身の集中と発散を司っている。骨盤というと板のような形をイメージする人も多いかもしれないが、実際は複数の骨で構成され、空間を包み込むような形をしており、上下にある口が開閉する構造になっている。

骨盤が閉じるとき、身体と意識は集中や興奮へ向かっている。開くときは発散、リラックスへ向かう。普通はこの開閉のサイクルを繰り返しているのだが、過度な緊張や刺激が続くと閉まったまま固まってしまう。こうなるとリラックスできず、ほどよい集中もできずに不安やいら立ちが募り、やがてうつ状態になってしまう。

出産のとき、骨盤は分解してバラバラになるかと思われるほどに大きく開く。そのため女性の骨盤ほうが大きく開閉するようにできている。毎月の生理の際は出産のシミュレーションのように大きく開閉する。開閉の大きさは感情の振れ幅と連動するため、生理のとき感情の動きが大きくなるのは身体的な根拠がある。また、骨盤がしっかりと開くほどリラックスできるし、閉じたときの集中力も高まるため、女性のほうが集中と息抜きの切り替えがうまい。

男性の骨盤は女性と比べると、全く動かないと言ってもいいほどに、開閉の動きが小さい。ところが90年代に入った頃から、女性に劣らぬほど大きく開閉する男性が現れ始めたのだという。これもまた、過度な情報の刺激で骨盤が固まってしまわないように、こまめに開いて強制リセットをかけているのだと考えられる。この過敏で骨盤がよく動く「脱男性的」身体の持ち主は、外見や身のこなしも中性的である。

このような身体の変化は2000年以降さらに進む。東日本大震災が起きた2011年に片山が書いた『ユルかしこい身体になる』では、当時の20歳代以下の人たちでは骨盤が大きく動く男性がもはや珍しくなくなったと報告されている。

インターネットが基本的なインフラとなり、ハッカーたちが夢見たパーソナルコンピュータのイメージを超越するスマートフォンなる機器を老若男女が持ち歩く現代、私たちの身体はおそらく今まで人類が経験したことのない変化を起こしている。骨盤ニュータイプの誕生である。

情報環境への適応と自閉症

ところで『オウムと身体』では、過敏体質は自閉症と似ているとも語られている。

自閉症者は言語的コミュニケーションを苦手とするが、身体感覚が鋭敏であり、言語以前の身体的コミュニケーションに長けていると言われる。そのため動物と親密な関係になることができたりする。

人間同士のコミュニケーションは言語中心のように思えるが、実は言葉を交わす前に身体でやりとりをしている。同じ場にいるだけでコミュニケーションは始まっているのだ。自閉症者同士は言葉を交わすことなくただ一緒にいるだけでわかり合えると言われる。

片山がこのとき20代から聞き取りを行っていると、喋らないで一緒にいられる関係が理想だと話す人が多かったという。過敏がスタンダードになった現代人は自閉症者のように、身体的コミュニケーションの比重を高めているようだ。

彼らはデジタルネイティブとも呼ばれ、物心ついたころから携帯やインターネットに触れている。インターネットは一見言語的なようだが片山に言わせると極めて身体的なものである。コンピュータを介して身体が直接システムとつながっている。情報を得るとき、読んで理解するというより、身体で触れるという感覚が強い。

これはハッカーたちが抱いたネットワークのイメージに近い。彼らはきわめて身体的な直感で、未来のコミュニケーションを予見していたのではないか。

「情報環境」というとき、一昔前は、コンピュータに接続したケーブルの向こう側に情報が詰まった空間があり、そこから情報を取り出してくるというイメージだった。今はそうではない。自然環境と同じように、それは身体を取り巻いており、身体や心とシームレスにつながっている。デジタルネイティブはおそらくそんな感覚を生きている。

身体と自然環境も、かつては対立するものであるように捉えられ、環境から侵入してくる微生物やウイルスを免疫が撃退するというイメージだった。しかし近年では、侵入者たちと身体はむしろ互いの存在によって成り立っており、境界を引くことはできないと考えられている。
  
すべてがシームレスで、あらゆるものが互いの存在によって初めて存在する世界。そこでは「私」も、網目の中の1つの結節点のようなものである。情報化の進展は、そのような仏教的世界観へと私たちを導いている。

ハイパーテキストと近代的時間

あるゆる存在の相互関係としての網。80年代に情報ネットワークの姿はサイバースペース=情報「空間」と観念された。だがネットワークは明らかに空間ではない。字義からしてもインターネットは"Inter相互"の"Net網"であり、Webはクモの巣や織り物を意味する。

一般的にインターネットと言ったときにイメージされるのはWWW=World Wide Webだろう(詳しくない方は要するにウェブサイトのことだと思ってもらえればいい)。Webでは「リンク」によって他のWebへとジャンプすることができる。これを実現している仕組みを「ハイパーテキスト」という。

ハイパーテキスト発案したテッド・ネルソンは、なぜテキストを相互に関連付けようと考えたのか。

彼は、人の考えを表現するためには、従来の執筆という方法では不十分であると考えていた。人は膨大な情報を摂取し、消化し、あるものは捨て、自分の考えを形づくっていく。

選び取ったもの、捨てたもの、それらに関連するもの、そのすべてが見えなければ考えの全体像は見えない。わかりやすいところでは、論文には参考文献が付記されるが、それらをすぐに読むことができたほうが理解を深めやすい。

ならば世界中のあらゆる情報が互いにリンクしているのが理想であろう。テッドはこのシステムを「Xanaduザナドゥ(桃源郷)」と名付けた。

Xanaduでは本文とそこからリンクしているテキストとのあいだに主従関係がない。読者は読む経路を自由に選ぶことができる。そこでは、始まりから終わりへと向かう、著者が設定した直線的な時間に従う必要がない。この過去から未来へとまっすぐ進んでいく進化論的な時間は近代の産物である。Xanaduはそのような時間から、今ここの自分を生きる時間へと転換する試みだとも言える。

 Xanaduは執筆環境や著作権管理まで含んだ壮大なシステムであり、それだけに実現は難しく、いまだ完成の目処は立っていない(WWWはXanaduの情報閲覧機能だけを取り出していち早く実用化したものだと言える)。しかしデジタルネイティブたちが情報に接するとき、彼らは自由にリンクをたどり、自分の中で情報を編集し、随時自分のインデックスを更新するような読み方をしているだろう。こような感覚はネルソンのイメージに近いのではないだろうか。

ネルソンはワード・プロセッサー(ワープロ)という言葉を嫌う。プロセッサーなどと言ったら言葉を切り刻んでいるようだ、と。代わりに提案した言葉は「テキスト・ハンドリング」だ。カット&ペーストを繰り返して命を抜かれた動きのない文章を成型するのではなく、自分の考えを構成している経路を示すべく操縦する手捌き。書くこと、広大な情報の網の中で表現することは、強く身体的な行為であるというメッセージを感じる。


今ここの桃源郷へ

  ところでイヴァン・イリイチは1971年の著作『脱学校化の社会』の中で、理想的な学びを実現する環境を提示し、「Learning Web」と呼んだ。
  これは学びたい人と教える技能を持った人が、互いにその存在を知ることができるネットワークのことである。このネットワークと、本や様々な道具を自由に使うのことができる文化センターのようなものがあれば、それ以外に教育のシステムは何もいらないとイリイチは考えていた。
  これは当時ハッカーたちが抱いていた、パーソナルコンピュータのネットワークのイメージに近い。当時のイリイチがその動向を知っていたかどうかはわからないし、ネルソンのアイデアはコンピュータサイエンスの世界でさえ理解されず無視されていたらしいから、イリイチが知ることはなかっただろう。しかし両者の理想には通ずるものがある。
  後年、一部のハッカーたちは、イリイチ思想の中心的概念であるConvivialという言葉を好んで使った。イリイチはConvivialをこう説明する。
「私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。」
   パーソナルコンピュータとインターネットはまさにConvivialなものとして構想されたことを、ハッカーたちは忘れていない。

  現在のインターネットのあり様はConvivialであるとは言いがたい。しかし情報を含めた環境とシームレスな私たちの身体は、今ここの心地よさに最大の価値を置き、予測できるはずのない将来のために我慢を重ねる近代的な身体を手放そうとしている。たとえ社会システムがディストピアへ向かったとしても、身体は変わり、その世界で生きようとするだろう。いつでも身体は、今ここの歓びを生きるために、したたかに、しなやかに、変わってきたのだと思う。今や私たちは、フェミニズムの想像力をはるかに超えて、性差を超越した骨盤を持つニュータイプである。私たちが死に、90年代が、近代が、歴史の1ページとなる頃、どんな新しい身体が、どんな歓びを生きているだろう。ネルソンの夢は果たされなくとも、身体はいま存在するその場所をXanadu:桃源郷にし続ける。今までしてきたように、これからも。

【参考文献】

片山洋次郎『整体から見る気と身体』
片山洋次郎『オウムと身体』
片山洋次郎『ユルかしこい身体になる』
片山洋次郎『女と骨盤』
押井守、最上和子『身体のリアル』
東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』
古瀬幸広、広瀬克哉『インターネットが変える世界』
ばるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』
イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』
イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』
イヴァン・イリイチ『生きる希望』
ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」―カウンターカルチャーが育んだ夢』
ハワード・ラインゴールド『新・思考のための道具』
ブレンダ・ローレル『劇場としてのコンピュータ』
リチャード・ストールマン『フリーソフトウェアと自由な社会』
ノーバート・ウィーナー『人間機械論―人間の人間的な利用』
『STUDIO VOICE』1992年4月号(特集 ニュータイプ誕生)
魔法使いの森「理想郷を求めて」

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