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帰ろう #シロクマ文芸部

 海の日を理由にして、僕は海へと向かった。
 本当は理由なんて要らなかったのだろうけれど。ただ海が見たくなった、それだけで十分だった。
 けれど、海が見たい、だなんてちょっとカッコつけてるみたいで、なんとなく気恥ずかしい気がした。

 車を降りて堤防沿いを歩きながら海を眺める。
 7月の中旬、梅雨の合間の晴れ。
 混雑しているとまではいかなくとも、家族連れやカップル、学生の友だちグループなどがチラホラ見える。



「おお、にーちゃん、海が好きか」
 突然声をかけられ、僕は驚いて振り返った。
 そこには、おじいさんが立っていた。綺麗な白髪に、深くシワの刻まれたよく日焼けした顔。
「……ええ、まあ、そうですね」
 僕は少し戸惑いながらも答えた。
 おじいさんは僕の言葉に同意するように数回頷きながら続けた。
「生命は海から生まれたというしな。生命は海に帰りたくなるのかもしれん」

 海に帰りたくなる——、その言葉が僕の頭の中で何度か反響する。
「俺もなぁ、若い頃はこうしてよく海を眺めたもんだ。不思議と心が落ち着くんだ」
 おじいさんの話に耳を傾けながらも、僕はなにも答えないまま海を見つめた。
「にーちゃんもなにか悩み事があるのか?」
「……あるような、ないような。どうでもいいような、よくないような、そんなことばかりです」
 おじいさんの問いに、ひどく曖昧に、けれど正直に答えた。
 自分でもよくわかっていなかった。自分の悩みは大事なことなのか、そうでないのか。これは悩みなのか、そうでないのか。
 僕の曖昧な答えにも、おじいさんはまた何度か頷いた。
「海は、なんでも包んでくれる。なんでも許してくれる。いつでも、海を見に来るといい」
 そう言ったおじいさんの顔は穏やかでありながら、どこか得体の知れぬ不気味さを含んでいるようにも見えた。
 にーちゃん、良い一日をな、と背を向けたおじいさんの姿を、僕はしばらくその場に立ち尽くして見送った。


 おじいさんの背中が小さくなった頃、僕はようやくハッとしてまた海を見た。
 変わらずキラキラとしていて、一層広く見える気がした。
 僕はゆっくり歩き出し、堤防を降りて砂浜へと向かう。
 砂浜に足を踏み入れると、柔らかい砂の感触が伝わってきた。
 靴を脱ぎ裸足になる。靴下を靴の中に適当に突っ込んでそれを持つと、僕は砂浜を歩く。
 一歩進む毎に、ザクリと沈む砂の感触を楽しむように。

 僕はそうして波打ち際へと向かい、砂浜と波の境界に沿って歩いた。
 波が寄せては返すその度に、心地よい冷たさが足元に訪れた。
 波の音がゆったりとしたリズムを奏でて、海の香りが鼻腔をくすぐる。
 立ち止まり、目を閉じて深呼吸をした。
 他に海を訪れている人たちの声さえも、どこか遠くなっていくような気がする。

 なんだか妙に懐かしい気持ちにもなる。
 さっきおじいさんが言っていた海に帰りたくなる、というのはこういう気分なんだろうか。
 僕は目を閉じたまま、心の中でおじいさんの言葉を反芻していた。



 身体の中の隅々まで、海水で満たされる。
 視界はぼやけて、口の中はひどくしょっぱい。
 血液の一本一本、神経の一本一本まで、じわじわと海水で満たされていく。

 僕の身体は、海の中へ沈んだ。
 冷たい水が全身を包み込み、全てが静まり返る。僕はただ、海と一体になっていく。




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2024.07.20 もげら

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