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【ショートショート】#001:グッバイ!タモリ倶楽部

日曜日の夕方になると、翌日からまたしんどい一週間がやってくると思い憂鬱になることをサザエさん症候群というそうだが、私はこれより重症のタモリ倶楽部症候群に罹っていた。

金曜の深夜、正確には土曜に日が改まった零時過ぎにはじまる『タモリ倶楽部』のオープニングシーンを観ると、とことん夜更かしができる喜びで気分が急上昇するのだが、番組最後の次週予告が流れると、
(あぁ、週末が始まる…でも、始まったら終わっちゃう…)
と、一気に気分が落ち込むのが主な症状だ。

今、世の中で大きく取り上げられているようなジェンダー問題や性差別に対して、私は特別な関心や主張を持っていない。派手な色のショーツ一枚の女性の尻を並べたあのオープニング映像を女性蔑視だと憤ったり不快に思ったりする人はいるだろうが、陽気に腰を振る女性の尻は、私にとっては休息の始まりを告げるチャイムのようなものだった。

『タモリ倶楽部』は私にとってビールを飲みながらただただ何も考えずにいられる時間だ。番組後半の空耳アワーで秀逸な作品が登場すれば大いに笑って、CMに入ったところで缶ビールの残りを一気に飲む。ここまでが私の解放時間だ。つづく次週予告のテロップが出ると一気に気持ちが沈む。
番組終了後、沈んだ気持ちを慰めるために今度はミニグラスに一杯の赤ワインを寝酒に飲んで、ぼんやりと眠りにつくのが定番だった。

そのタモリ倶楽部が2023年4月1日に終わってしまった。

番組が無くなったからといって私の病は快癒しない。逆に、辛いウィークデーを勤めあげて、ようやくやってくる休息の始まりを告げるチャイムが無くなったことは、私をさらに落ち込ませ、金曜日の夜が嫌いになっていった。

仕事は嫌いじゃないし、会社の人間関係に問題があるわけでもない。それなのに、私はウィークデーがとことんしんどい。

いつのころからか、私は多くの人に囲まれた環境でひどく疲れるようになっていた。
オフィスの周りにいる人の声が気になる。動きが気になる。
さっき、課長が同期の子を呼び出して会議室に行ったけれど、何を話したんだろう?
向かいのデスクに座っている先輩が電話をしながら、困った顔をして「申し訳ありません」を連発しているけれど、どうしたんだろう?
このメール、すごくぶっきらぼうだけれど、私に不満でもあるのかな…。
そんなふうに、私を取り巻く世界が気になって、心配のほうに想像を膨らませながら仕事をこなしている。これでは疲れるはずだ。

しかも、今年の夏は、疲労困憊の私に追い打ちをかけるように暑すぎる。
通勤電車に乗る人たちは皆、疲労を溜め込んで不快な顔をしているように見える。実際、乗客同士の諍いの場に居合わせてしまうこととが多い。高齢のおじさんの怒鳴り声に、
(長く生きれば人間は丸くなるだろうに、子供より幼稚なのは認知症?)
と自分の心の声で耳を塞ごうとするのだが、軽蔑で身を守ろうとする自分に嫌悪してさらにグッタリする。

***

また、金曜日がやってきた。

帰宅ラッシュの時間を外すために残業をしたおかげで、電車内では隣の人に触れることなく自宅の最寄り駅までたどり着くことができた。いつもなら駅を降りると家までの道を歩く気力を失うほど疲れているが、今日は私のバッテリー残量に余裕あるように感じた。

『タモリ倶楽部』が無くなって、金曜夜のルーティンが定まらないでいた私は、すんなり帰宅する気持ちになれなくて、最近、帰り道の途中にできた小さなBarに立ち寄ってみることにした。駅前の商店街を抜けて静かな住宅街に入ってすぐのところにあるこの店は、梅雨が始まる少し前にオープンした。ほぼガラス張りの店で、歩道から店内の様子がよく見える。私好みの木のぬくもりを感じるインテリアと、店のドア横の『女性おひとりでもお気軽にどうぞ』という小さな張り紙がなんとなく気になっていた。カウンターには私と同世代くらいの女性が立っていて、彼女が店長?店主?のようで、いつも店を切り盛りしている。

私は、木枠にはめられた大きなガラスのドアに手をかけた。ガラスの真ん中に小さく『Eir』と書かれている。店名だと思うが意味は知らない。
ドアをゆっくり開けると、
「いらっしゃいませ。」
カウンターに立っている女性が、私の顔を見て耳障りの良い穏やかな声をかけてくれた。
「あの…、一人なんですけど…」
と、私が言うと、
「カウンターにしますか?それとも、おひとりがいいですか?」
女性は、自分の目の前のカウンター席と、その背後に置かれた小さなテーブルとイスの場所を指しながら言った。
「せっかくだから、カウンターで…」
「こちらへ、どうぞ」
そう言うと、私の座る席にコースターとナッツが入った小さな皿を置いた。
イスの前に私物を置くための小さなカゴがあり、私はそこにカバンを置いて、ハウスワインの赤をオーダーした。

入店して10分もしないうちに、店内はほぼ満席になった。といっても、店はとても小さくて、全席が埋まってもカウンターは5人、テーブル席は6人ほどだ。オープンして3か月程度というのに慣れた様子で店内に入ってきた常連らしき人もいる。

店内は賑やかになったが、カウンター内でドリンクを作る彼女が和やかに客に応じているおかげか、店内の居心地は悪くない。私は、スモークチーズをつまみにして、ゆっくりとワイングラスに口をつけながらボーッと目の前にいる彼女のほうを見ていた。すると、
「落ち着きますか?大丈夫ですか?」
グラスを拭く手を止めて、彼女が私に小声で話しかけた。
「大丈夫です。いいお店ですね。」
私がそう言うと、彼女は少しだけ私のほうへ身を寄せて、
「ホントは女性専用の店にしたいところなんですけれどね…」
と、さらに声を小さくして、周りの人に聞こえないように言った。
私は会話の内容を周囲に気づかれまいと、アイコンタクトを交えた笑顔で返事をした。

一人客が多かったおかげで、私は気兼ねなく店内で過ごすことができた。
最後の一杯のつもりで頼んだワインを飲み終えるころには、客は私だけになり、カウンターで彼女が洗い物をする音が店内のBGMに丁度よく共鳴していた。メロディのある音楽ではなく川のせせらぎの音だ。この空間を壊すのは勿体なかったのだが、他の客がいなくなり気兼ねなく彼女と話ができると思った私は、
「お店はおひとりでやられているんですか?」
と、声をかけた。
「はい。ひとりでできるこんな店を出すのが夢だったんです。」
「すごいですね。女性がおひとりでお店を出すなんて…」

話を聞いてみると、彼女は私の一つ年上の33歳。大学を卒業した後に上京し、医療機器メーカーで総務の仕事をしていたそうだ。30歳の時、当時付き合っていた人が地方へ転勤になるのをきっかけに結婚を決め、退職して新生活の準備をしていたのだが、式直前で破局。再就職を考えたが、ふたたび会社勤めをする気になれず、退職金をはたいてこの店をオープンしたそうだ。もともと、学生時代のアルバイトで長く飲食店で働いていたので、店のオペレーションは何の不自由もなくできるそうだ。
「自分でできる範囲の大きさで、やりたいことをしていこうと思って…。本当なら、今ごろは福岡の郊外で、旦那さんの料理を作って帰宅を待つ主婦をしていたかもしれないのだけれど。」
フフフッと笑いながら話す彼女から、(そうならなくて良かった)という安堵が伝わってきた気がした私は、
「このお店を出すコースを選んで正解ですよ。私はこのお店を知ってうれしいです。」
と言うと、
「そう思っていただけたら何よりです。」
彼女は微笑みながら、店のドアのほうへ向かうと『Open』の看板を『Close』にひっくり返した。
「あ!ごめんなさい。閉店時間なんですね。」
私が慌てて言うと、
「もし、まだお時間があるなら、私は急いでないのでゆっくりしていってください。」
と言いながら、道に面したガラス窓に半分ほどロールカーテンを下ろした。そして、カウンターに戻ると、2個のグラスにワインを注いで、ひとつを私に出して、
「ボトルを空けちゃいたいから、お手伝いしてもらえませんか。」
彼女はもう一方のグラスを手に持ち、私のほうに差し出した。私は、
「ありがとうございます!」と言いながら、手に持ったグラスを彼女のグラス近づけ乾杯をした。

30分くらい経っただろうか。互いの生活について他愛もない話をしていたのだが、私が会社勤めのしんどさを少し話し始めたところで、彼女が、
「実は、あなたが毎日夜遅くに、店の前を通る姿が気になっていたんです。」
と言い出した。
「え?」
私のことを知っていたってこと?
「いつも、道を通りながらこの店のほうをちょっと覗いてくれていたじゃないですか。いつか、ドアを開けて入ってくれたらいいなって思っていたんです。」
「そうだったんですか。素敵なお店ができたなぁって気になっていて…」
「気分を悪くされたらごめんなさい。お店に向けたお顔がいつもひどく疲れているように見えて、大丈夫かしらって気になっていたんです。」
「わぁっ。バレちゃってますね。誰も私の顔なんて見ていないと思っていたから、素の私の顔を見られていたんですね。」
会社の中では絶対に見せたことのない顔を、目の前にいる今日初めて会話をした彼女に見られていたのを知って、とても恥ずかしくなった。
「余計なことを言いましたよね。ごめんなさい。でも、そのお顔を見ながら会社で働いていた時の自分を思い出して、心の中で“ファイト!”ってエールを送っていたんです。…その気持ちが伝わって、今日、ご来店いただけたと思ったらとてもうれしくて…。」
「ご心配おかけしました。」
私は笑いながら、少し大げさに頭を下げた。
「とんでもない。こちらこそ、ご来店ありがとうございました!」
彼女は、私よりもさらに深々と丁寧にお辞儀をした。

居心地がよく、ずっとここにいたい気持ちになったが、時計を見たら午前1時をまわっていたことに気づき、
「こんな遅くまでごめんなさい。そろそろ、帰りますね。」
そう言うと、彼女もカウンターの隅に置いていたスマホにタッチして時間を確認すると、
「こんな時間まで…。私こそ、お引き留めしちゃったみたいですみませんでした。明日、定休日なので羽を伸ばした気分になれて楽しかった~。」
そう言いながら顔を少し上げると、両手を大きく広げて伸びをした。

勘定を終えると、彼女は新品のコースターを渡してくれた。
「ありがとうございました。よかったらまたお越しください!」
「もちろんです。また、すぐに来たいです!」
私は、そう言って軽い会釈をして店を後にした。

今日は金曜日の夜。やっと休みだ。休みになる。
いつもなら、頭を空っぽにして足を引きずりながら家に戻るのに、なぜか軽やかに歩けていることに気づいたのは、自宅の玄関に到着した時だ。いままでは、玄関に入ってすぐのところにあるキッチン脇に置いた小さなイスに座り、抜け殻のようになってしばらく動けない。猛暑で家の中はムッとしていて、すぐに自分の部屋に入ってエアコンを点ければいいのに、その前で力尽き、蒸された空間で次の動作をするためのエネルギーが溜まるまでボーッとするはずが、今日は、まず、自分の部屋に行ってエアコンを点け、シャワーを浴びるためにバスルームへ直行した。
スッキリと汗を流し、身体にタオルを巻いた状態で冷やされた部屋に入ってようやく休日が始まった。
お楽しみの『タモリ倶楽部』は無くなったしテレビはオフのままでいい。

ベッドの上に腰かけ、カバンの中からさっきの店でもらったコースターを取り出した。
表面は店名の『Eir』。店主の彼女のイメージに合う、落ち着いて品のあるロゴだ。
(紙色も厚みも絶妙でおしゃれだなぁ…)
そう思いながら、円型で厚みのある少しザラザラした紙を手でひらひらと扇ぎながら眺めていると、裏面に何か書かれているのに気づいた。

― おつかれさまでした。
当店が貴方のお休み処になるよう
お待ちしています。―


小さな手書きの文字になぜか涙が出そうになって、私はスマホで店名の『Eir』の意味を調べた。
どうやら北欧神話の女神の名前らしい。
癒し、援助、慈悲…の女神、エイル。

この世は私のエネルギーを奪うものばかりだと思っていたけれど、そんなことはないのかもしれない。そう思い込んでいたのは私だ。私の思考が私を痛めつけていたらしい。
月曜日がイヤだと思っていれば、どんなに楽しい週末が待っていても金曜の夜から憂鬱になる。憂鬱を取り除けば、週末はもっと喜ばしいものになるはずなのに。
『タモリ倶楽部』を、もっとシンプルに楽しめばよかったな…。
いつから私は、この世の中は鬱陶しいところだと決めたのだろう。

何気なく入ったこの店で、不思議と気が合う女性と出会って、こんなに気持ちの軽い金曜の夜は社会人になって初めてだと思う。
毎日、あの店の前の道を、魂を抜かれたような顔をして歩いている私の姿を、彼女は心配しながら見守ってくれていた。自分の心をどうにか保つために築いた脆くて厚い壁は、あの店の前を通る時には崩れ落ちていて、誰も知るはずがないだろう無防備で疲れ切った私の姿があまりにも無残で、彼女は気になったのだろう。
通りすがりのような出会いだったが、私は素の姿を見せても平気な人を初めて見つけた。
気を張らなくていい。ちょっと立ち寄って、近況を話したり話さなかったり、好きに過ごして、元気になって家路につく。これが、私の金曜夜のルーティンになった。

私にとって、休日の始まりを告げるタモリ倶楽部は終わったが、新たに心休まる場所『Eir』ができた。ここで、ひと休みできることが楽しみで金曜日が待ち遠しくなった。店を後にしても、休みが終わってしまうという嘆きは感じない。
「今週も頑張った!さあ、ゆっくり休んで、明日は…何をしよう…。」

グッバイ、タモリ倶楽部。
グッバイ、憂鬱な金曜日。

(了)

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