『祈り』は、自分のためのものだった。
義理の父が他界して、明日で1か月が経つ。
1か月の間、私はすぐに小さな仏壇を買い、毎日花を飾り、祈った。
家の中で線香のにおいがするとか好きじゃないはずなのに、毎日線香を焚いた。父が安らかに眠れるよう、毎日祈った。
1週間に1度は花を買い、飾った。花瓶がひとつのセットだったので、もうひとつ買い足した。
子供たちとも一緒に、線香を立て、おりんを鳴らし、手を合わせる。
そうやって毎日祈るうち、私は父に祈っているようで、これは父のために祈っているのではないのではないか、と思うようになった。
父のために祈るたびに、救われているのは私のほうだった。
父のために飾った花に癒され、線香を焚く行為に救われていたのは、私だった。
美しい花と、良い香りにつつまれ、今年の初頭から体調の悪かった私の体は、日に日に回復して行った。
それは、線香をあげたからだろうか。
死者に祈りを捧げたからなのだろうか。
そういう見えない世界のことは全くわからない。
私は、実は高野山の寺院で僧侶として得度している。それでいながら、そこまで熱心な信者でもない。
『次の世界』のことも、若いころほど信じてはいない。
お寺にお金を捧げるのも、自分に余裕があるときで良いと思っているし、それは人生の『軸』ではなく、人生の『余剰』で行うべきものだと思っていた。
でも、日々の行いはどうすればいいのか、わからずにいた。
高い仏壇を買えばいいのか。
毎日読経すれば救われるのか。
瞑想すればいいのか。
答えはみつからなかった。
でも、今回のことで、少しわかった。
花を生ける対象が存在することは、もしかしたら幸せなことなのかも知れない。亡き父のために、父が好きだったおかずを選んだり、買いに行ったりして愛を表現する行為は、すなわち自分に向けた愛を与える行為として返ってきていたのではないかと。
高い仏壇を買っても、立派な墓を建てても、そこに祈りがなければ、それにより誰が救われるものでもない。
ましてや、死者の棺を覗いた事がある人ならばわかると思うが、人間の体はあくまで『入れ物』であって、自分が接していた、失って悲しい、会いたくて恋しいと思える対象は、その体に内包されていた『魂』だ。
あの魂を想って、祈りを捧げる。
そこに読経がなくてもいい。ただ誰かのために花を捧げ、祈ること。
それが自分に対しての祈りになるのだと。
それがきっと、救いになる。
もう少し、1年くらいかけてこのことについては、ゆっくり考えていきたい。
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