想い出の洋楽は人生の分岐点で知った。

シンディ・ローパーの「True Colors」を教えてくれた人がいた。私が29歳のときだ。「True Colors」は中学生の頃に流行ったので、メロディ、特にサビの部分は聞いたことはあったけれど、歌詞の内容までは全く知らなかった。知らずに30歳になろうとしていた。その頃、私は「社会人」という役割を降りて、逃げるようにまた大学に戻っていた。

小学生のときから学校は私の居場所だった。家はどうしようもなく居心地が悪くて、この家に自分がいるのは何かの間違いだと思っていた。何でこんな女と一緒に暮らしているのか、暮らさなくてはならないのか、生まれてきてしまったのか、呪われてると思っていた。
こんな女とは、母親だ。
不倫の末に私を産み落とし、挙句、結婚したばかりの自分の妹、つまり私の叔母に2歳の私を預け、自分は別の男と同棲して水商売を続けた。9歳になるまでそんな状態が続いた。
預けられている間は穏やかな日々だった。叔父や叔母は継子扱いせず、自分の子と同じように育ててくれたから。ただひとりぼっちで6畳の部屋に寝かされるのは寂しかったけれど。寂しさを紛らわせるためにポケットラジオを枕元に置いて聞きながら眠った。ラジオから聞こえてくる洋楽は子守歌だった。

小学校3年の2学期に母親のもとに返された。生物学上は母親でも、7年も一緒に暮らしていなければ他人と変わらない。
どう接していいのかわからない女と、父親でもない働かないアル中男の狭間で生きていかなければいけなかった。
気性の荒い母親は、機嫌を損ねると怒鳴り、平手打ちをした。押し入れに放り込まれ、そのまま閉じ込められたこともある。男の目の前で着替えさせられたこともある。怒られないようにご機嫌をうかがいながら育った。家は理不尽と虐待のデパートだった。
それでも「普通の」母子家庭なんだと自分に思い込ませて生きていた。グレもせずに。
いつか叔母が迎えに来てくれるという幻想を抱いていたから。

1995年1月17日の阪神大震災は、自分の心の中まで激しく揺らして、何かを崩してしまった。その上、友人が死んでしまった。家が崩れた上に火災が発生し焼死してしまったのだった。
死にたいとは思わなかったけれど、なんで自分が生きているのか、生きていていいのかわからなくなっていた。そんな思いをずっと引きずって、再び学生になったのだった。
「私は存在していいのですか」
私の中でいつも問いかける誰かがいた。

そんなときだった。臨床心理士をめざしている彼女に出会ったのは。
私は彼女の練習台だった。彼女はカウンセラー、私がクライアント。毎週、彼女のいる部屋に行き、話をする。ただそれだけだった。
毎度毎度、重い話をするクライアントに彼女はどう思っただろうか。
部屋に入り、彼女と向き合った瞬間、心に纏った鎧が外れた。そこには弱々しい自分がいた。ほぼ毎回泣いていたのではないか。泣きながら自分の身の上を呪い、母親への恨みを語り、何より「寂しい、寂しい」と呟いていた。まるで4歳、5歳の子どものようだった。
私は4歳、5歳の時に抱えていた思いを凍結して封印したまま大人になったのだろう。
そして封印を解き、思いを解凍して彼女の前で吐き出したのだ、「息をするのさえ…後ろめたい…生きてることが…後ろめたい」と。押し殺したようなうめき声。普段の自分の思考回路とは別の所から出てきた声のような気がした。そのうえ自分の声ではないような気がした。それは自分の中にいる小さな私の声だった。小さな私がほんの少し警戒心を緩めてしゃべった瞬間だった。

あの部屋の彼女の前では、涙と洟水でぐちゃぐちゃになった自分を曝け出すことができた。そこは安全な場所で、彼女は安全な大人だと感じたからだろう。
彼女はほとんど何も語らず、ただ黙って私の話を聴いていた。

雑談や世間話だけに終わることもあった。それは私が自分の話から逃げたいときでもあった。自分と向き合うということは、麻酔もせずに傷を切開して膿を出し、洗って消毒をして縫って塞ぐような作業だったから。話すのが辛い時は世間話で終わってしまう。洋楽の話がでたのは、そういうときだったのではないか。私はビートルズの「In My Life」が好きだと言った。彼女はシンディ・ローパーの「True Colors」が好きで、何千回、何万回って聴きましたよと言った。その後、歌詞の内容を知ったとき、なるほどいい歌だと思い、私も何百回、何千回と聴いた。

2年間、彼女の元に通い続けた。さまざまな気づきをもたらしてくれた。
ひたすら寂しい子どもだった。寂しい思いを抱えていても、それを口に出さずに隠して育った子どもだった。迎えに来なかった叔母を恨んでいた。過酷な状況の中でも自分を生かしてきた。そして語ることで生き直しをした。
「私は私のままでいいのだ」と日記に書いた。

あの2年間がなければ、今の私はない。私の話にずっと耳を傾けてくれた彼女には感謝しかない。

最後はhugをして別れた。
それから彼女とは一度も会っていない。

初学者の頃にこんな重たい話をするクライアントに出会って、彼女はどうしただろうとずっと気になっていた。
最近、居所が分かったので手紙を書いた。
その中で
「自分の母親があんなだったから、自分は子育てできる自信がない、母親にはなれそうもないって思っていたけれど、子どもたちが私をまんまと母親に仕立て上げました。私は子育てをほぼ終えました」と書いた。

思いがけず、彼女から返事が来た。
そこにはこう書かれてあった。
「私はあなたにまんまとカウンセラーに仕立て上げられました」

そして最後にこう書いてあった。
「あなたはあなたのままでいいのです」と。

思わず手紙を抱きしめた。
「True Colors」を聞きながらまた手紙を読み返した。

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