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合体進化説

 まずは、各学会、各大学の権威とも言うべきそうそうたる顔ぶれ、皆様にお集まり頂き、私の発表にご意見を賜われるこの上なく光栄な機会を頂けたことに深く感謝いたします。
 生物学や考古学をご専攻される皆様の中に、化石なるものをご存知でない者はいないでしょう。またその化石の時代や場所を調べる方法も広く知れ渡るに至りました。しかし、新大陸含めた様々な地層から太古の異形が数多く出土しております中に、人間の似姿は見出せません。カミンスター先生は父なる神の御姿に選ばれた私達人類が、微細な生物が段階的な変化を経て哺乳動物そして霊長に至ったというお話をされました。驚天動地であります。斬新なことをお考えになる。先生は、土や石から作られた存在が地に満ちた後に、我々にのみ神に近似する姿に近付く道が与えられたという予定説をお話になる。私もそれには深い感銘を受けました。生物は最初、小さな粒でありました。それが次第に高度化していった。考えられる話であります。
 おお、敬虔な信徒の皆様、誤解しないでください。父なる神は完全な存在であります。それ故、間違いは成しません。愚かな生物を競わせ最も強かなる者に完全なる道をお示しになられた。それは無欠なる教示を授ける者らしいではありませんか。
 しかし、私がこれより唱えますのは、カミンスター先生の学説とも異なる結論を導く、ああ、自ら名乗り出ましょう。異端の学術論文になります。
 皆様、落ち着いてください。私は父なる神や偉大なる先達や観察される事実に背く者ではありません。ただ、それらを全く奇妙な方法で縫合するものであります。
 どうかご静粛に。
 結論から述べましょう。私達が繰り返してきた進化とは即ち合体と包摂なのです。
 太古に私達の祖先を構成していたのは、何一つない殻でした。何も中身がない伽藍堂です。ただ代謝は発生しており、活発ではなくとも呼吸はできました。酸素を通じて行っていたものかは解りませんが。
 そこにより合理的に呼吸を行う存在がくっつき、一体化したのです。そうすることで、体の内にて分業がなされ、より高次の生物へと変貌遂げるのです。
 種の高度化の原理は基本、これに則って行われます。私達は最初、四肢も内臓も脳も全て別の生物でありました。それ一つ一つを拾い集めるようにして合体を繰り返してきた。それこそ私達が共通して持つ歴史なのです。
 私達の手は、今やそれ単独では呼吸できませんが、昔は細い骨の周りに鋭い爪と器用な指、そして口と手と消化器官を持った立派な生物でありました。狩りや集団行動や生殖もできたことでしょう。そして増殖していったのです。しかし、あまりにフォルムが細く内臓がコンパクトすぎました。そして草原を長距離移動する力もありませんでした。ただ蛇のように這うだけでありました。
 私達の足は、その昔、健脚として群れをなして生活していました。いくつかの個体で華奢な身体を寄せ集め、健気に生きていました。長距離の移動を繰り返し、雑食でした。
 ちなみに、今現在、他の生き物の手足となっている箇所も元は同様の独立生物でありました。あるものは木々に巻き付くように生活をし、あるものは地に穴を掘り、中のより低次な生物を捕食していました。
 内臓器官群もまた、より小さな生物としてそのあたりで生活していたのです。単独動力として、心臓や肺の原型は生きていました。極端に呼吸や循環に特化していた生物は見た目も風船のようでありました。無論、その生物にも口から消化器官、肛門に至るまでの管が通っています。小さいながら生殖器官もあります。けれど、大変微力であり、また非効率でありました。
 考えてみてほしいのです。解毒に長けた臓器のような生物、消化に長けた臓器のような生物、生殖に長けただけの無用の長物。それらが相互補完へ道を歩き始めることは、想像に難くありません。
 後に外骨格を形成するに至る生物は次第に適合する形を見つけながら、少しずつ合体します。本当に少しずつです。ここには試行錯誤があったと見て間違いないでしょう。連携して動きながら、互いの食物と繁殖相手を見つける長い旅に出るのです。例えば、鹿のような手であったものは、霊長の足のようなものと出会います。逆もあります。どちらが生き残りやすいかと言われれば、間違いなく後者であります。前者は生き残れません。鹿のような足だけではありません。牛のようなもの、獅子のようなもの、魚の鰭のような突起がついたものなど、色々ありました。その中から探し出すようにして、くっついたのです。私達の手と私達の足はそうしてペアになりました。しかし、それだけでは単純な移動と生殖を繰り返すだけでした。移動と作業はできますが、知的ではありませんし、依然として細すぎる内臓を使って内部処理をしなければなりませんでした。そこでまた更に合体が起きるのです。肺胞を発達させた生き物を生きたまま取り込んで、一体化していき、それが数世代続いて合体が常になると、とても合理的に動力を送り込める器官(オルガン)として、いや、機関(エンジン)として成立するのです。
 元より海洋を漂っていた生物の話をします。いくつかはクラゲのように今もなお、漂流と分裂の輪廻の中にあります。しかし、合理的に毒と均質な細胞を宿した一部は、魚類や海洋哺乳類と一体化する進化を遂げたのです。今もそういった生物の内臓として脈々と続いているのです。かつて硬質の殻を手に入れた生物も同じです。性質を硬骨魚類や甲殻類に残しながら、単体で生き残ることは止めたのです。
 化石に見つかる生物の中には奇特な形しているものが多いと思います。現生のそれらには見られない特徴を宿しているものは数知れず、そのサイズもおおよそ現代の環境に適応するものではありません。太古の地球は多様分裂を許す環境でありました。したがって、私達の肉体や内臓は好き放題暴れまわっていたのであります。
 今の言葉はあくまで比喩です。分裂した状態が合理的であったとでも言いましょうか。その証拠に腕や臓器の影だけになったような化石も発見されておりましょう。これらは元に大きな単一の生物があるのではありません。これ単体で生物として成立していたのであります。バージェスで見つかった珍妙な棒状の化石、あれなどは私達が持つ脊髄の原形が海で泳いでいた頃の姿であります。私達は原始バラバラでした。それが長い年月をかけて集合を続け、現在の形になったのです。
 その過程で不要な器官を削ぎ落とし、その他の器官とくっつきやすい形に変化する分業化が起こりました。最初の世代はぎこちなく、噛み合わない歯車のように稼働し、生殖も依然として別個で行われていましたが、合体変異と呼ばれる、これを克服した段階で、私達の皮膚が縫合によって接着するように一体化し、適切な形へと変貌を遂げるのです。そうして生物は縫合や分裂を繰り返し、他者から機能を取り入れながら、最適な形態を模索し続けて参りました。現段階で人類が最も神の御姿に近しくなったのです。しかし、未だに足りないものは透徹した叡智とその完全なる精神であります。これを持てるに至るまで、私達は長い進化の道を歩み続けなければならないのです。他の生物もまたそうでしょう。より強靭に、より聡明になるために、耐えざる合体を繰り返します。これこそ進化です。時たま分離し別々の道を歩み始めるこれは退化です。変遷はこうして起きてきたのであります。
 一つ、何より大切なことに触れ忘れました。脳です。私達の脳は一体どこからやってきたのか、ということです。これについて、憶測の域を出ませんが、1つ仮説があります。それは元より神経を張り巡らせる回路を持っていた生物、個別の細胞を繋ぎ合わせて伝達を行う機能があるカビです。あれは体こそ軟弱で卑小でありますが、緻密な構造を持って、今日まで生存してきました。あれらのうちの一部が大昔に私達の内奥に入り込み、別々の個体であった我々の肉体を統御し、複雑な思考をさせるに至ったものと思われます。実際に白日のもとの露呈した脳などは、カビとよく似た構造を見せるのです。
 その後の私達が単一の生物として振る舞うに至ったのは、互いを見合わせれば解るとおりです。今やその縫合跡すら見られないまでに、私達は1生物として成立できています。しかし、尾てい骨や肋骨などにかつての形状であった時の名残が見えます。今の生活様式にあっては必要ないものです。これを踏まえると私達でさえ、依然として合体の途上なのでありましょう。したがって、他の生物を更に取り込み、自己変容を促していかねばなりません。
 それはこれまでのように長大な時間をかけた合体の形であるべきか?
 いいえ、そうではありません。私達は人工的に外部の成分を抽出して、体内に取り入れる方法を開発できるではありませんか。合体を繰り返すプロセスを内製化できるではありませんか。自己改造によって合体進化を早め、適応的な形質を得られたら、遺伝に至るまでそれを残していく。私達の代からでもそうした営みを始めなければならないのです。祖先に倣い、今は分業している営為を統合し、合理化し、環境全体での最適を目指していく。個別本意の意思決定を改革し、種自体の繁栄を志向するには、これより他にないと考えます。

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