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真夜中の病気

どこまで生きても結局は孤独なのだと思うことがあります。

たぶんそれは間違っていなくて、ずっと孤独を頭の片隅に感じていて、最後そのまま死んでいくのだと思います。悲しいというか、そういうものなんだと思っている。誰と居ても何をしていても心から繋がるなんてことはできなくて、ただ、それはみんな価値観や生き方が違うのだからあたりまえのことで、誰が悪いというわけでもなく。繋がりたいなと思ったもの同士が寂しさを薄めるために手を取り合うのだと、でもその寂しさが完全に消えることなどはなくて。

上手く付き合いながら、妥協しながら、寂しさをタンスの奥の方に隠す。衣替えなんかでちらりと見えてしまったときに、傍に人がいたら少しは怖くなくなるのだろうな。久しぶりに見たね、なんて笑い合えるのだろうな。なんてことを布団に包まりながら考える。好きな音楽を聴いて、優しい映画を見て、鋭い小説を読んで、それだけで良いはずなんですけどね。ないものねだりですね。らしいと言えば、らしいのですが。

大きな出来事があって、その事の大きさを真正面から受け止めて傷つくのもとてもしんどくて涙が出るけれど、毎日小さな不安が少しづつ生まれて、それらにじわじわ体を蝕まれていくことのほうが、わたしは痛くてつらいということが最近分かった。寝ても覚めても小さな黒い点が頭のなかから離れない。一生このままなのかな、なんて思って簡単に絶望したりする。そういうときにふっと思うんですよね。ずうっと寂しいまんま生きていくのかなあ、もう死んでもいいなあ。

そうは思っても、結局は死なないんですけどね。平々凡々に、淡々に、毎日を少しでも楽しもうとしてしまうんですよ。散歩して日光浴して、美味しいクリームソーダ飲んで、家族とご飯食べてにこにこするんです。それでもどうしようないときに夜中にこうやって文章を書く。

思っていることを書いているだけなので、起承転結のない、曖昧模糊な文章にしかならないけれど、気分が少し落ち着く。書くという手段があって良かった。中学のころの先生には本当に感謝しています。文章を書くようになったきっかけのエッセイはこちらに。もし良ければ…。

そうこうしているうちに元気になってきました。真夜中はどうしても思い悩み、泣きたくなる日が多いです。せめてもの抗いとして、ヘッダーは瑞々しい晴れの写真にします。
明日は朝にどうしてもバターをたっぷり塗った食パンを食べたいので、この落ち着いた気分のまま眠ろうと思います。真夜中に悩む全ての人に平穏な朝が訪れますように。