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柔らかく穏やかな夜明けを手に入れる

最近、幸せになりたいと思うようになりました。
眠る間際だったり、食事中だったり、映画を見ているときだったり、ふと、忘れていたことを思い出すように浮かんできます。幸せになりたいなあ。

今まで、幸せになりたいという言葉に疑問を持っていました。幸せになるってどういうことなのか?何を成し遂げたら幸せになるのか?そもそも今は不幸せなのか?といった具合です。
披露宴でほほ笑む新郎新婦を見て、宝くじに高額当選した人を見て、何でもない穏やかな日々を家族と過ごす人を見て、新しい命の誕生に出会えた人を見て、幸せそうだなと思います。ただ、あの人たちみたいに幸せになりたいとは思いませんでした。私は、一生を誓い合った人も傍にいないし、お金は必要最低限しか持っていないし、毎日残業ばかりで休みは死んだように眠ってしまうし、きっと一生新しい命に出会うこともないのに。僻んでいたり卑屈になっているわけではないのです。心はとても穏やかでした。

なぜ私が頑なに幸せになりたいという言葉を口にしないのかというと、幸せになりたいと口に出すことで、今の私自身を否定しているような気分になるからだと思います。今の私の生活を否定してしまったら、これからも今まで通り穏やかに暮らせるだろうか?私自身が現状に満足しているのだから、今、私は幸せの部類に入るのだろうと思っていました。

幸福、と調べると以下のように出てきます。

満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。
引用 : goo辞書(https://dictionary.goo.ne.jp/)

全く持ってその通りだと思います。今の私を「幸せになりたい」という言葉で否定していまえば、私は満ち足りていないことになるのではないか。それは、ひどく悲しいことなのではないだろうか。

私が幸せになりたいと思うようになったのが、退職がきっかけです。いろいろあって仕事を辞めて、現在は無職です。就職活動はあまり上手くいっていませんが、しています。所謂ニートと呼ばれるものでしょうね。加えて仕事を辞めたのと同じ時期に、好きな人ともお別れをしました。そうすると私の中身がまるで全て無くなったかのような気分になりました。空っぽです。何にもありません。中を見てもそこには何にもないのです。

私はこのとき初めて、自分自身を創り上げているのは自分だと信じていたことを恥ずかしいと思いました。私は、外部の環境に、私以外の意思に依存して生きていたんだということに気づきました。あんなにつらくてしんどくて、息がしづらい職場に私はアイデンティティを持っていました。こんな私でもきちんと会社員としての役割を持っているということに安心を覚えていました。こんな私のことを好いてくる人も世の中にはいるということに、自尊心が守られていました。他にもいろいろ、小さいことから大きなことまで、私を形成していたすべてが崩れたとき、私には何も残っていませんでした。

ある日、国民年金の払込用紙が届きました。「税金かあ、払いにいかなくちゃなあ。」とぼやいた私に、「お前今稼いでないもんな。」と父親が言いました。「今ストレスないでしょう、ニートだから。」と母親が言いました。「いいんじゃないですか、ニート。本人がいいなら」どこかのラジオで誰かが言っていました。全部、なんてことない一言で、全部、その通りです。こんな何でもない挨拶くらい気軽な言葉がいちいち刺さるのです。鋭利な言葉が胸のあたりを刺します。じわりと血が広がって、全身に巡って、体が固まって、動けなくなります。こんな一言に。傷づける意図のない、日常会話でこんなにも簡単に傷ついてしまう自分が、嫌で嫌で、情けなくて。そのときに思いました。幸せになりたいなあ。

前みたいに忙殺されるような会社に入って、役割を手に入れられたら幸せなのか。恋人が出来れば幸せなのか。きっと違うのだと思います。核となる自分を手に入れないといけないのだと思います。自分がこうしたいと思ったからこうする、自分が決めたことだから責任を持つ。それが出来ないときっと駄目なんだと思うようになりました。
今でも些細な言葉で血が流れるし、悶々と考えてしまうこともありますが、そうした日々のなかで、書くことを仕事にしたいと思うようになりました。こうして言葉を並べていくこと、文章を書いていくことを生業にしたい。noteに自分のことを書いていたこともきっかけのひとつになりました。自分自身の思いを文章することの難しさ、そして同じくらいの楽しさ。今はまだ模索中です。何も形になっていませんが、時間が(主に金銭面ですが)許す限り足掻いてみようと思います。夢見がちな世間知らずかもしれません。でも、私は一応、会社という組織に加わり、世間の一部となったことがある人間です。だからこそ、この不安定な状況がしんどいというのもあります。そのなかで、自分のためだけに行動することができるって、思っているより実りのあることなのかもしれません。

こうやって自分のために足掻いている私は、一般的に見たら滑稽ですが、個人的には悪くないです。むしろ幸せかもしれません。今まで決められたことばかりしてきた自分が、初めて道のない道を歩こうとしています。とても自由で、何にも縛られていない。真白い衣装を身にまとう花嫁の幸せと自分のために足掻いている私の幸せが同じなのかはわかりませんが、私は幸せな人間なのかもしれません。「幸せかもしれません。」が「幸せです。」に変わるように生きていきたいですね。自分自身を肯定して自信を持って、胸を張れるように。そう頑張れることが私の幸せかもしれません。幸せの形は人それぞれ。私はこのことに気づくのにいろんなものを失い、時間を掛けなければいけませんでした。

幸せは、誰にもその基準を決めることのできない、ひどく曖昧な言葉だと思います。生きてきた環境、接してきた人々、それに自分がどう感じてきたのか。何を大切にして、誰を守ってきたのか。何のために命を削るのか。その一つ一つの出来事を並べて眺めてみたときに、それを愛せるのか。愛せなくても、それを受け入れることができなくても、時間は勝手に進んでいくのが残酷です。そうした日々のなかで、拾い集めた私自身のなかに留めておきたいと感じた出来事や物が人生の豊かさになるのだと思います。数や重さではない。今日もきっと時間が進むごとに私の人生は豊かになっている。そう思って生きていきたい。そう思えるように生きていきたい。

脈絡がない文章となりましたが、書けて良かったです。いつか、遠い未来の私が、あの時は馬鹿だったなあなんて、笑える日が来ますように。


BGM : SUPER BEAVER  運命
私を支えてくれた曲です。良かったら聴いてみてください。