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「話すことは放すこと。言えることは癒えること。」

不器用な私。

この前、久しぶりに喋りすぎてしまった…と後悔することがあった。

人に話を聞いてもらうことは自分が思っているよりも貴重なことで、
人の話を聞くことは自分が思っているよりも体力を使うことだ。

「沈黙は金」の母の教えの下育ってきた私だが、喋りたがりなところも大いにある。やってしまったなという後ろめたさから、その場にいた人たちにメッセージを送らずにはいられなかった。

私の周りにいる人たちは、ありがたいことに優しくて温かい人ばかりだ。

保育士としての私、ヨガクラスの生徒としての私

そのときは、よく参加しているヨガ&ジャーナリングのクラスのあとだった。

ワンドリンク付きのレッスンで、ドリンクを片手に、クラスに参加した私を含めた4人でテーブルを囲んで話していた。それぞれのプロフィールや仕事のことを話したり、聞いたりしているうちに、私の仕事について話し始めたところだった。

ちょうどヨガの先生も近くに来てくれて、ヨガの先生のことも、同席するみんなのことももっと知りたいと思っていたところだったのに。

自分で振り返っても驚くくらいに、仕事に対する気持ち、こういうシステムが問題だと思うとか、自分はこうありたいとか社会はこうあるべきだとか、偉そうに話してしまった。

私は1年間の事務職を経て、保育業界に転職した。インターナショナル保育園で1年間保育補助として働いて、その後、私立のこども園に転職。昨年の8月に免許をやっと取得した新米の保育士だ。今年度初めて担任を持ったばかりの、未熟で駆け出しの保育士。

未熟だけれども、保育については真摯に取り組んでいるつもりだ。目の前にいる子どもの今と将来を考えて、この子が健康で朗らかに、幸せに生きていくにはどう声をかけたらいいだろうか、どう関わるべきかと毎日試行錯誤している。

そんな私が、保育はこうあるべきだとか、社会のシステムがどうだとか、まるで専門家でコメンテーターかのように語ってしまった。自分の未熟さゆえに感じる不具合・不都合もあるはずなのに、あたかも正しいことを言っています!とアピールせんばかりに話してしまったことが、なんだか傲慢な気がして恥ずかしい。

独りよがりに自分のことばかり話してしまった反省を自分の中で処理しきれなかった。「話し過ぎてしまってすみません」の気持ちを伝えるべく、私が後悔するほどに話してしまったその相手数人にメッセージした。

そのときに、ヨガの先生から送られてきたメッセージが
「話すことは放すこと。
言えることは癒えること。」

ふうっと心に風が通ったように感じた。

ヨガの先生は、お子さんがいらっしゃり、子育て真っ只中のお母さんだ。子どもを保育園に預けることもあるだろう。私の保育士としての話を聞いたときに、思うこともあったはずだ。

それにも関わらず、どんどん開示していってほしい、という言葉をかけてくださるその懐の広さに、だから彼女のヨガクラスは心地良いんだな、と納得した。

話を聞いてもらえる喜びを、誰かに与えられる人でありたい

傾聴は、保育士にとって重要性の高いスキルだ。

お母さんから、子育ての不安を打ち明けられたときに、寄り添い、手を取り、一緒に考えていける存在でありたい。「独りじゃないんだ」と心を軽くし、子どもと過ごす時間を楽しんでほしい。

そんな気持ちから保育士を志したにも関わらず、お母さんとして日々子どもと向き合っている人に、背中をさすられてしまった。

そんな人が傍にいる現状をうれしく思いつつも、今度は私がその立場に、と思わずにはいられない。

未熟で、不器用で。そんな私が誰かの力になんて、という気持ちは自信のなさからくるのだろう。

「話すことは放すこと。
言えることは癒えること。」

いつか、彼女にこの言葉をかけられる日がくるといいなと思う。この言葉そのものをかけられなくても、何か、ふと彼女の心の内を話してもらえる日がきたらな、と。そうなったときに、私は保育士としての自信を持てるのかもしれない。



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