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「出会い」


園へ向かう途中の
交差点にある草垣に
息子は毎朝あいさつをしに行く
「いた」
おおきな蜘蛛をじっとみつめて
目をかがやかせている

均等に張り巡らせた巣に
大小さまざまの
朝露の玉が連なっている
風の通るうつくしい巣の中央で
小刻みに揺れている蜘蛛
返事はない
息子もそれきり口を開かない

信号が青にかわったので声をかけると
ぱっと顔をあげた息子は
満足そうにわらい
もう一度蜘蛛を振りかえって
わたしに手を引かれていく

横断歩道を渡りきると
「だいちゃん、もう来てるかなあ」と
仲良しのともだちの名をうれしそうに呟いて
つないだ手を振りまわす
ちいさな赤ちゃんだった手は
いつのまにかわたしの手を力強く引く

きみの世界に出会いが増えていく
みんなに会えること
だれかに、なにかに出会えること
そのたびに生まれてくる
気持ちに出会えること

開かれていく世界の
先々にあるだろう出会い
よろこびもかなしみも
朝露の玉のように
この道の先に連なっている

共に味わって進みながら
その中央で堂々と
空を見上げて風に吹かれよう
あの蜘蛛のように

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先日園から帰ってきた息子が、夕食の席につきながらしみじみと「ほいくえん、たのしいんだー」と呟いた。2歳児クラスから登園をはじめ、一時期「いきたくないの」としょげていた時期もあったことを思うと(言葉には出さなかったけれど)内心母としては歓喜乱舞レベルのつぶやきだった。どんなところがたのしいのか聞いてみると、複数あるのかと思いきや「だいちゃんがいるから」と仲良しの男の子が1人いることだけが理由だった。日ごろからだいちゃんの他にも仲のいいお友達と楽しくやっていることは先生からも本人からも聞いていたけれど、ここまで「だいちゃん」の存在が息子にとって大きいことに驚いたし、はじめて親や祖父母などの身内以外の人を大切に思う気持ちを息子から聞けたことがなんだか眩しかった。

その時、自分が産んだ子でありながら「ああ、人間なんだな」と思った。いや、人間だと思っていなかったわけではないけれど(いやいや、たまに怪獣に変貌することもあるけれど)。生まれてきて泣くことしかできなくて、だんだん大きくなって、歩けるように喋れるようになって、人と出会って。そうして今ではその人との関係性のなかで感じるものがあるという、人が人になっていく過程をみたような気持ちになった。もちろん姿形は生まれた時から人型だけど、内面というのか精神面というのか自分と自分以外の世界との関係をよりはっきり感じて言語化した息子の姿に体だけじゃなくて心も変化しているのだということをまざまざと感じた。

そんな息子に昔の自分が重なる。当時園児だった私もいちばん仲良しのお友達のことが大好きでもうその子がいるだけで楽しくて他に何もいらないくらい幸せな気持ちになって遊び回って、たまに意見が食い違ってケンカもするけれど仲直りしてまた遊ぶ。結局そのお友達とは引越しで別れなければならなくなってしまったけれど、あの子どもの時の純度100%みたいな嬉しさ、楽しさ、悔しさ、悲しさはそのまま薄まることなく私の心の奥底のほうで濃縮されたまま残っている。むしろそこがベースなのかもしれない。

いま息子も出会うものや人・出来事に、持てる限りの生命力で向き合っているのかなと思うとそのひとつひとつを応援したい気持ちになるし愛おしい。ついつい「はやく着替えて」「歯みがきして」と口うるさくなってしまう母だけれど息子なりのペースで息子なりの人生の出会いを楽しめますように。母はきみに出会えてとてもうれしい。あの交差点の蜘蛛、「毒グモだからさわっちゃだめだよ!」って教えてくれてありがとう。毒グモじゃなくてもさわり(さわれ)ません。

ちいさなともだち

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